雪時雨 -yukishigure- (九)




「・・・ここ、どこなのだろう。・・・駕籠に乗せられている時に、水の流れる音を三っつ聞いたけれど」
まだ声に力はなかったが、それでも荒く繰り返すだけだった息が鎮まると、何とか短い会話ならば続けられそうで、総司は独り呟いた。
「京の地理はよう分からんけど、多分嵯峨の天竜寺、云う寺やろ」
「・・・天竜寺?」
怪訝そうに繰り返す声に、清一郎が頷いた。

確かに嵯峨にある天竜寺ならば、家作のあった場所からは、加茂川、掘川、そして桂川と三つの川を渡る。
思えば、駕籠に揺られている間もずいぶんと長い時だった。
それ等の符号を合わせても、地理的には全部が一致する。
だが何故清一郎が、詳細に寺の名まで言い切れる確証を持っているのか・・・
思惑は、すぐに新たな疑問を生む。


「天竜寺は長州を匿っとる寺やからな」
総司の不審を察した清一郎の顔に、苦い笑いが浮かんだ。
「長州?」
又も自分の推測の範疇を突飛も無く外れた名を耳にして、見つめる瞳が遂に困惑の色を湛えた。
「死んだ工藤という浪人と、うち等を囚らえている奴等、・・・皆同じ仲間や。そしてあいつ等は弘前藩をも裏切って、今は長州に匿われている」
話の断片だけからでは到底事の経緯(いきさつ)を判じかね、総司は瞬きもせず、息をも詰めるようにして、清一郎から語られる次の言葉を待つ。
「弘前藩は最初は薬を作る為に、芥子の花を栽培してたんや。けど重なる飢饉やら、お上から命ぜられた役務やらで出費が嵩んで、最近ではもうどうにもならんようになってしもうたらしい。それでその芥子から薬に使うんや無い阿片を作って売り、藩の財源にしようとしたんや・・・。それを欲しいと言うた相手が長州やった」
淀みなく語る主の顔に視線を止める総司は、驚きが過ぎて言葉が出ない。

どうして清一郎が、縁もゆかりも無い、東北の一藩の事情をこれ程までに把握しているのか、それは河合の横領事件と繋がって来る事なのだろうか――――
混乱が増す思考の中で、総司は知り得たひとつひとつの事柄を、結び付け、或いは紐解いていて、自分なりに必死に把握しようとしていた。
しかし全ては、これから清一郎が続ける言葉できっと明らかにされる。
だから一言一句たりとも、聞き逃す訳には行かなかった。
総司は少しでも清一郎の表情が良く分かる向きへと、不自由な身を漸く動かし視線を据えた。
その様を見届けた清一郎が、一度静かに息を吐いた。

「兄が、新撰組の金を横領したんは、うちのせいや」
何の前触れも無く、声の調子すら変えずに繰り出された言葉は、だがあまりに突然に、そして直截に事件の中枢を突く告白だった。
「金は、うちが必要だったんや」
目の行く先を宙に据えて動かない清一郎は、尚も淡々と語る。
だが突きつけられた真実は、或いはそうではないのかと案じていた総司に、予想を大きく超えた衝撃を与えたようで、硬い横顔を凝視する瞳だけが大きく見開かれた。
「・・・兄を殺したのは、うちや」
やがてゆっくりと視線を戻た顔が、ぎこちなく笑った。
「うちが、兄に金を都合してくれ云うて、泣き付いたんや」
「どうして・・・」
聞かなければ成らない事は限り無くある。
だが今はそれだけを、からからに乾ききった喉の奥から、総司は無理やり搾り出した。


「うちとこは播磨でも長く続く米問屋や。・・・その跡継ぎやった兄は、小さい頃から何をやらせてもそつ無くこなす人やった。親も周りも皆が兄ならと、商売を切り盛りする日を楽しみにしてた。うちみたいな出来の悪い弟かてえろう可愛がってくれた。・・・けどうちは生まれた時から根性が曲がっとった」
清一郎の方頬だけが歪められて、自嘲するような皮肉な笑みが浮かんだ。
だがそれがひどく哀しげに見えて、一瞬総司を捉えた戸惑いは、相手に言葉を掛ける間を逸しさせた。

「五つ違いの兄と比べられるのが、嫌で嫌でたまらんかった・・・。うちかてこんなにできる、これなら兄さんにかて負けへん。けどいくらそう誉めてほしゅうても、いつも兄の次や。そんなん日が重なって幾歳も過ぎて来ると、もうどうでもええ、今度はそないな捨て鉢な気持ちになった。けどある日その兄が急に、店は継がん、京に上って武士になる、そう言い出したんや」
「・・・それが」
掛けた声が、沈黙の名残で少し掠れた。
「そうや、新撰組や」
「・・・河合さんは、勘定方に配属と決まった時に、いつか実戦に出る日までの、一時の辛抱なのだと自分に言い聞かせたと言っていました。そうでなければ、家を継いでくれている清一郎さんに申し訳が立たないと。・・・そう私に話してくれた事がありました」
今は亡き者が持っていた先への希(のぞみ)を語ることは、その身内にとってはただ辛いに過ぎ無いとは思いながら、だが総司は少しでも清一郎に、この弟の知らない兄を語って聞かせたかった。
「そないな事、言うてたんか」
清一郎の目が少しだけ細められた。

「・・・兄の話を聞いた時、父親は激怒し、母親は泣いて、一人として兄の我儘を許す者などおらへん中で、うちだけが兄を庇った。けどほんまは、やっと自分にも運が回ってきた、そう思うたんや。・・・周囲の反対を押し切って京に上る前の夜、店のことはあんじょうするよって、何も心配せんでええ、そう言うたうちに、兄はすまんとひとこと言うた後、泣いて頭を下げた」
清一郎は心持ち俯き加減に視線を逸らせた。
「清一郎さんの事を、河合さんはいつも自慢していた。自分の勝手を黙って許してくれた弟なのだと」
それを語った時の、河合耆三郎の穏やかな笑い顔を、今総司は脳裏に思い浮かべていた。
「・・・許したんやおへん。邪魔だった兄が出て行くいうて、うちは喜んでたんや・・・そういう人間なんや。屑やっ」
「そんなことはないっ」
昂ぶる感情のまま、思わず身体を起こそうとした時、総司の胸に息をも止めるような鋭い痛みが走った。
呻き声ひとつ出すことも出来ずに、そのまま崩れ落ちる様子を気配で察した清一郎が慌てて振り返った。
「無茶したらあかんっ、さっきから言うてるやろっ」
叱る声に、聞かぬ者への憤りがあった。
暫くは冷たい汗が次々と額から滴る侭、物言うも叶わず、身体を硬くして、苛むものが治まるのをじっと待つ他手立ては無かったが、やがてゆっくりと痛みが和らいでゆくと、きつく食いしばっていた総司の唇から漸く細い息が漏れた。

「あんた、熱もあるやないか」
いつのまにか支えるように触れていた清一郎の手に、身に着けているものを通しても、尋常でない熱さが伝わる。
「やっぱり骨を痛めたんや、どっか他に苦しいとこないか?」
覗き込まれて、総司は小さく首を振った。
「こんなときこそあの薬があれば、せめて痛みだけでも取れるんやけど・・・皮肉なもんや」
耳に届く声音は、目の前で苦しむ人間へ何もできない悔しさ、苛立ちを隠しもせず、清一郎の持つ本来の優しさを物語っていた。

「・・・河合さんが私にくれた、・・・あの薬の事でしょうか?」
全ての発端になっているそれに話が触れて、どうにか横臥する体勢に、今一度身体を持ってゆくと、途切れてしまった話の続きを催促するように総司が清一郎を見上げた。
「阿呆なことを、してしもうた・・・」
自分の纏っていた羽織を脱ぎ、それを総司の身体に掛けながら、清一郎の顔に又歪んだ笑いが浮かんだ。

「兄の代わりに店を継いだ後、親にも周りの者にも、自分の方が出来るんや、早くにそう認めてほしゅうて・・・焦ったんやろうなぁ。あちこちに手を広げすぎて、気がついた時には借金ばかりが嵩んでどうにもでならんようになっとった」
「・・・それで、河合さんに?」
総司の問いに、清一郎は首を振るだけで否と応えた。
「そんなんなっても、まだうちは強気やった。こないなもんはすぐに取り返せる、そう思うて、新しい卸先を見つける為に大坂に行った時に、あの工藤という浪人と偶然宿が一緒になったんや」
「・・・工藤儀作」
呟いた名はまだ記憶に新しい、忘れるはずの無いものだった。

「宿に戻った時、慣れん土地での交渉が災いしたんか、酷い胃の痛みに襲われてしもうた。その時丁度相部屋やった工藤が、薬をくれて・・・それがあの薬やった。飲んで暫くもたたんうちに、痛みは嘘のようにようなった。あんまり効く薬で驚いていると、工藤が国元の弘前の薬やと教えてくれた・・・」
「けれど、あの薬の効きかたはおかしい」
自ら体現しての疑惑を、総司は口にした。
「そうや、おかしかった。普通やったらあまりの薬効に、返って不審を持って、それほどまでに効くんやったら、逆に毒にならんのかと疑うのが本当や。・・・けど、うちはその時普通やなかった」
「・・・清一郎さん」
あまりに苦しげな横顔に、総司が思わず声を掛けた。

「工藤はうちに、あの薬を売らんか、云うて誘いかけた」
「あの薬を?けれど、河合さんの家は米問屋で・・・」
清一郎が、緩慢な動作で総司に視線を移した。
「そうや。薬種の株を持っておらんうちにできへんのを承知して、密かに売ればええと、耳打ちしたんや。・・・体を苦しめる痛みに根を上げている人間は、欲しいと思うたらなんぼかて金を出す、工藤はそう云うた。そしてうちはその効き目を体で知ってしもうていた。・・・目がくらんだんや。五百両の金を用意すると、すぐさま工藤に約束した」
「清一郎さんっ」
そうであっては欲しくない、そうであってはならないと必死に真実を拒もうとする総司の声が、目を凝らさなければ相手の様子が判じにくい薄闇を裂いた。
「兄に金を盗ませたんは、うちや」
それを敢え無く手折って、清一郎の応えが、ぼんやりと木霊するように返った。

「癪の薬や、試してみてや云うて薬を兄に渡し、それを使おたと思うた頃、又京に上った。せやけど兄は薬を飲んでおらへんかった。けどうちは怯まんかった。この薬を売る、飲んだら分かる、これやったら売れるんや。だから金が要るんや、そう言うた時、兄は胡散臭い話やと一蹴した。それでもうちは更に喰らい付いた。買い手は見つけてある、品物が入ればすぐにでも金は返せる。十日、十日でええから用立てしてくれ、言うたんや。店の為や、そうせんと店はのうなる。両親かて妹等かて、皆で首括らなあかん言うたうちに、兄はとうとう折れてくれた」
兄耆三郎の反対は苛烈なものだったのだろう、語る清一郎の顔が、それを聞き入れなかった己を責めて曇った。
「それから中一日して、工藤に名指しされていた旅籠に金は届いた。・・・五百両や」
「・・・それで、・・あの浪人から薬を買ったのですか」
「薬は買えへんかった」
「何故っ」
「騙されたんや」
「・・・騙されたって」
「金は渡した・・工藤は姿を消した。そうして初めて、うちは自分の馬鹿さ加減をその時知ったんや・・」
息を呑んで言葉を失っている蒼い顔に、清一郎は静かな目を向けた。
「阿呆に同情してくれへんかてええ。こないな話聞いて、傷に触らんか?」
こんな時にまで自分を気遣ってくれる心が、総司には哀しかった。
微かに首を振る仕草に、清一郎も小さく笑いかけた。

「もうあかん、店も何もかもおしまいや、そないに自暴自棄になったうちを、兄は、まだ諦めるのは早い、そう言うて励まし、ひとりで手がかりを探し始めた」
最後まで残さず告げると決めた清一郎の語りは、まだ終わらない。
「・・・それで河合さんは何かを見つけたのですか?」
もしもそうならば、河合は弟を陥れた人間達を探し出す途中で無念の死を遂げた事になる。
「薬が、弘前の一粒金丹ゆうのに似てると分かった。何処から探し始めてええのか分からん中で、藁にも縋る気持ちで弘前藩の藩邸を見張っている内に、長州の人間が出入りしているのを知ったらしい。この裏には商いで騙された、騙したを超えて、もっと何か大きな企みがある。これ以上足を踏み入れるのは危険や。藩と藩との、ましてや長州が絡む事ならば、きっと新撰組かていずれは嗅ぎつけて、金を横領した事も知られる処になる。せやからもう金の事は諦めろと兄は言うた。そして自分が腹を切ると・・・」
凍りついたように瞠られた瞳に向けられた顔が、くしゃりと笑った。
「そないな事はさせられん、うちが必ず金を取り戻すよって、それまで待ってくれ云うて泣いて縋っても、兄は首を縦にせえへんかった。武士やから腹を切って、自分の仕出かした事の始末をつけなあかんのや、そう言うた。・・・・それから二日後や。金の横領が知れてしもうたのは。・・・うちが、兄を殺したんや」

「・・・そんな」
それ以上の、どんな言葉を掛けろというのだろうか・・・
清一郎を凝視しながら総司の脳裏に、切腹の沙汰を下された時、ただ静かに頭を下げてそれを受け止めた河合の蒼い顔が鮮明に蘇る。
あの時――――
すでに河合は弟の為に、自らの死を覚悟していたのだというのだろうか。
だとしたら、その心はあまりに哀しい。
そして兄の亡き骸に取りすがり、漏れる嗚咽を必死に殺していた清一郎の心にあったものは・・・・
思えば、天は何と残酷な仕打をこの兄弟に下したものか。
呆然と清一郎を見上げる総司の胸の裡が、肉体を苛む辛さを遥かに凌駕する苦しさで覆われる。


「大坂で、あんたが工藤から庇ばってくれた時は、うちがあいつを見つけて喰らいついたのや」
「けれどあの時、工藤という浪人は清一郎さんに殴りかかって・・・」
「うちはどうしても諦めきれへんかった。何の手がかりも無い、四面楚歌や。けど大阪で会ったのならば、そこで捜し出せるんやないかと、そないな阿呆らしい勘だけに頼って、播磨に戻らず足を止めていたんや。そうして一月、ようやっと見つけた時、あいつに向こおて怒りのまま、犬畜生っ、そう叫んでた。・・・あんな奴にも矜持というもんが残ってたんやろ。後はあんたも知っての通りや」
その時の悔しさ、憤り、到底言葉でなど現す事などできない激しさの迸りに堰せず、清一郎は工藤に憎悪と憤怒をぶつけたのだろう。
吐き捨てるように言い切り、過去を語る顔は苦渋を隠せない。
「・・・では、私は清一郎さんが漸く見つけたあの浪人を、又逃す手伝いをしてしまったのだろうか」
長い言葉を語るのは、息を継がなければならない。
その度に胸に軋むような痛みが走る。
それでも今の総司にとっては、結果的に清一郎の邪魔をしてしまった自責の念の方が、遥かに辛い。
「いや・・」
そんな不安に揺れる瞳を見る清一郎の眼差しが、精神の安寧を取り戻したのか、ずっと穏やかになった。
「あの時殴られてたら、うちはその後工藤を追う事ができへんかったやろ」
「・・・追ったのですか」
「追った」
間髪をおかず戻って来た応えが、清一郎の勝気を垣間見せた。

「そうしてあいつの後をつけて、奴等の弱みを握った・・・」
「弱み?」
「そうや、弱みや。あいつ等が隠し持っていた阿片。・・・自分らの藩を裏切って持ち出し長州に売ろうとしていた、その阿片を隠していた場所に、あいつはうちがつけているとも知らず無防備に立ち寄った。後で知れば、あいつは更に仲間を欺き、ひとり阿片を持ち逃げしようとしていたらしい。その為にあの日、阿片の隠し場所を密かに変えたんや」
「・・・それであの人は仲間に殺されたのですか?」
「そうや。いつの間にか無くなっている阿片に、あいつも、仲間の奴等も青くなったやろうな」
清一郎の方頬に、皮肉ともつかぬ笑いが浮かんだ。
「その阿片・・・、では今は」
「うちが持ってる」
黒曜石に似た深い色の瞳が、驚愕に見開かれ、清一郎を捉えた。

「工藤の隙を狙って、うちが盗み出し、あいつ等にそれを教えた。・・・いや、脅したんや」
「何故っ・・」
叫んだ途端、胸の中心に、射られた矢が骨を砕いて突き刺さるような衝撃が走り、後に続くはずの言葉は、ただくぐもった呻き声に変わった。
「あかん、言うてるのが分からんのかいなっ」
慌てて背を摩ってくれる脅迫者の手のひらは、人の温もりを十二分に持って、無理を責める声音さえも、今は切ない程に優しい。
だが応えようとする言葉は、まだ苛むを止めない激しい痛みと、それを堪える為の荒い息でひとつの音も形にできない。
息をすることもできず、苦しさに喘ぎ、思わず伸ばした指先が何かに触れた。
それが清一郎の手だと、意識に刻み込む余裕は今の総司には無く、ただ堪え処を求めるように必死に縋りついた。
「もっと強う握ってもええ」
耳に幾重にも和して押し寄せる声が、何と言っているのか・・・・・
それとて判ずる事も出来ず、総司は更に掴んでいる指に夢中で力を籠めた。


どのくらそうして呻吟の時が過ぎたのか―――
ともすれば遠のきがちだった意識が少しずつ戻って来、清一郎の声が段々と近くに聞えるようになり、固く閉じたままだった瞳がうっすらと開いたのは、それから暫く経ってからのことだった。

「楽になれたか?」
薄い身体を辛そうに床に臥せ、自分の手を、まるで唯一の頼りのように掴んでいた、骨ばった指から力が抜け離れると、額から冷たい汗を滴らせている面輪の主に、清一郎は声を掛けた。
それにようよう頷いて、総司はどうにか顔を向けた。
「・・・・大した事ではないのです」
こんなにも容易く見破られる偽りを告げ、辛苦の名残を濃く蒼い頬に浮かべている若者を、清一郎は暫し黙って見ていた。

余程に、痛みはこの者を強く苛んだに違いない。
当人は覚えてはいないのだろうが、掴まれ、爪を立てられた手首の少し上からは、まだ痺れと熱が伝わる。
きっとこの若者はいつの時も、辛いとは一言も言葉にせず、己の身体を苦しめる理不尽を天に憤る事もせず、むしろ気遣う者達に、案ずるなと、慰撫するような眼差しを向けるているのだろう。
それはちょうど今、自分を見つめるこの瞳のような――――
必死に隠そうとする様が痛ましいと、苦しさを人に当る術も持たない心根が哀れだと、ふと清一郎の胸の裡が何とも云えない思いに捉らわれた。


「金の話を出す前の事やったけど・・・・。兄が、渡してあった薬をもっと欲しい、そう云うて文を寄越した事があったと言うたやろ?自分の事やのうて、人の為にいるんやと書いてあったんを読んだ時は、いかにも人のええ兄らしい思うてうちは笑った」
そのまま暫し言葉を止め、次に総司に向けられた眼差しは、亡き兄の心を懐古するように柔らかなものだった。
「薬を必要としてるんは、新撰組の大切な人や。身体を無理させて人の何倍も仕事してはる。いつも笑おて大丈夫しか言わへん。けど大丈夫な訳があらへん、せやから辛い時に、少しでも楽にさせてあげられたら・・・、そんなん書いてあったわ。誰の事か、そんときは新撰組なんぞ、うちには係わりの無い事やと思おてた。それがこないな事であんたを知る内に、きっとこの人の事を兄は言うてたんや、そう思うようになった」
静かに語る清一郎を、総司は言葉無くただ見つめている。


勘定方に席を置く河合とは、顔を合わせれば他愛の無い話を交わしはしたが、それ程までに互いを知っていた訳では無い。
だがこうして再び清一郎から更に深い河合の心情を聞かされれば、切なさだけに包み込まれる。
それは過去と呼べるものになっても決して朽ち果てる事無く、思い出す度に、人の温もりを伴って自分の胸に慈雨のように染み込むのだろう。
不意に熱いものが目の奥を襲った。
慌てて瞼を幾度か瞬いて、それを遣り過ごしたが、そんな事は何の役にも立たず、更に滲み出そうになるものを堪えるのに難儀し、遂に総司は瞳を閉じた。
清一郎は怪訝に思うだろうが、今はこうするより他、総司には情けない自分を隠す術が無かった。

だが感傷は束の間も許されはしなかった。
突然、総司の身体に張り巡らされたあらゆる神経が、まるで小動物が危険を察知するかのように、見えぬ敵の気配に向かって研ぎ澄まされた。
横たわっているだけが精一杯だった総司が、咄嗟に向けて動かない視線の先に何かを感じ取ったのか、清一郎も又体を硬くした。



男達は蜀台の蝋燭の灯りを手に、暗いというよりもすでに漆黒の闇と言った方がよさそうな向こうから、足音だけをさせてやって来た。
橙色の光の輪に映し出された人影が、前に揺らめきながら近づくのを見て取ると、総司は清一郎の止める手を外して、渾身の力を振り絞り上半身を起こした。
外から南京錠を外す音が響いた時、総司の腕が、無意識に清一郎を庇うように前に出た。

「あまりのんびりもしていられ無いようになった」
入ってきたのは全部で四人。
「どういう仕掛けがあったのかは分からんが、我々も此処を追われる身となったらしい。最早悠長に構えている余地は無いと云う事だ」
語っているのは、伝五郎の家作から連れ去られる時に、会話を交わした男だった。
やはり、この人間が首領と言って良いのだろう。
「あんたの隠しているものを、出してもらう」
焦りが、男から余裕というものを奪い取っていた。
声は、獲物を威嚇するように低く迫るものだった。
「これは取引やと言うた筈や。おまえらの探しているもんは、五百両で買い取って貰う」
それに応える声も、今度は怯む様子の些かも感じさせない。

清一郎も、最後の正念場と踏んだのだろう。
否、死を賭して、この男達に対峙していると云って過言ではなかった。
それ程までに、ぶつける言葉に激しさがあった。
だがその必死こそが、総司にとっては危惧でしかなかった。

男はつい今しがた、此処を出なければならなくなったと言った。
清一郎の話から長州に匿われている筈が、その庇護の下を去るということは、同時に裏切りを犯した者達を断罪すべく、弘前藩が動き出すと言う事なのだ。
ぎりぎりの崖淵まで追い詰められたこの男達に、清一郎との駆け引きをする猶予など無い。
或いは。
己ひとつの身だけを守ろうとするのならば、清一郎の隠し持つ阿片とて、頭から切り離されている可能性すらある。
だとしたら、清一郎の挑発はあまりに危険すぎる。
すでに、切り札は無いのだ。


「阿片は五百両と交換や」
総司の思惑など知り得ず、庇っている腕を除けると、清一郎は男達と対峙するように立ち上がった。
「駄目だっ」
瞬時にそれを遮って、男と清一郎との間に立ちはだかろうとした総司の身体が、咄嗟の動きについて行けず大きく揺らいだ。
「邪魔せんといてくれっ」
だが後ろからの怒声にも振り向かず、崩れ落ちそうになる身を、踏ん張る足に力を籠めることで漸く支えて、総司は正面の男に勝気な瞳を向けた。
「俺達にはのんびりしている暇が無い。用があるのは後ろの人間だ。それを阻むのならば貴殿の口を封じる他無い」
焦燥を露にした言葉は、それが嘘ではない事が、男が細めた目の奥にある鈍い光で分かった。

腰に差す物は無い。
あるのは我が身ひとつだけ。
それとて傷つき、こんな時に何も役には立ちはしない。
それでも此処を一歩たりとも動く訳には行かない。
清一郎を僅かでも、これ以上前に出すわけには行かなかった。
動きひとつ意の侭ならない悔しさに、己を罵倒したい思いで総司は、例え何があろうと、必ずや清一郎を護り切らなければならない覚悟の中にいた。
後に庇う者には、例え指一本でも触れさせはしない。
その信念だけが、霞む視界の中で唯一自分を支えるものだった。


痺れを切らしたのか、不意に前の男に動きがあった。
それは顎をしゃくっただけの僅かなものだったが、蝋燭の灯が壁に映し出す影は天井まで伸び、殊更大きくその仕草を真似た。
全ては承知されていた事なのか、後ろに構えていたもうひとりが、それが合図のように鯉口を切る音をさせた。
「言葉で聞かないのならば、問答など無用のもの」
鋼の抜かれる音に、清一郎の身が強張った刹那、その視界を突然黒いものが横切った。

きっと――――
それは束の間の出来事だったに相違無い。
言葉が最後まで終わらない内に振り下ろされた刃を、紙一重の差で総司が身を捩ってかわし、相手が一瞬怯んだその隙に、身体ごと敵の胸懐に飛び込んだのだった。
総司の手が、体勢を崩して踏鞴(たたら)を踏んだ男の腰から脇差を抜き取り、何事も無かったかのように、再び元の位置に戻り構えるまで・・・
計れば一度瞬きをする間も無かったろうその一部始終を、清一郎の目は確かに現のものとして映し出していた。
それでも尚、敵を前にしての緊張よりも驚愕に支配されて、見開かれた双眸は一連のこの有様を俄には信じる事ができず、肩で荒く息する薄い背を、清一郎は呆然と見ていた。



瞬時に抜き去るには、大刀では時がかかりすぎた。
そして何よりも、今の自分の身体に残っている力では、脇差を扱うのが精一杯だろう。
が、脇差では防戦だけに徹する事を意味する。
襲い掛かられたその瞬間に、相手を一太刀で倒さねばならない。
ひとりならば確実に大丈夫だろう。
だが敵は全部で四人、それができるかどうか。
あらゆる事柄を算段に入れて、気力だけで持たせている、今にも傾ぎそうな身体を総司は叱咤した。

額に浮いた汗が、瞳にものを映すのを邪魔する。
たったこれだけの動きで、その視界とて朧なもののよう心許なく揺れる。
少しでも気を抜けば、自分の意識は闇へと浚われるだろう。
それでも総司は瞳を険しく細めたまま、相手に据えた視線を微塵も逸らそうとはしない。


清一郎は自分が守る―――
それが今の全てだった。










           事件簿の部屋    雪時雨(十)