雪時雨 -yukishigure-
(十)
夜更けて―――
辺境な地に音立てるものは、すぐ間近に流れる川の、途絶える事無いせせらぎだけだった。
色為すもの全てを漆黒に塗り替えてしまったかのような闇を、ひとつ濃くして浮き上がる焼け残った山門の威容が、門前に立つ者達に、この寺の嘗ての権勢を見せつける。
春近い宵とはいえ、温(ぬく)い季節の訪れが市街よりも少し遅い山辺では、吐く息は未だ白く濁る。
「一番奥の、南の端だと言ったな」
誰に掛けるとも無く呟いて、閉ざされた門の向こうを見据える八郎の声が、辺りに漏れるのを憚るように低く、くぐもった。
「伝吉が見張りについている筈だ」
「だが南と言えば、すぐに川だろう」
土方の応えが終わらぬ内に、新たな疑問を投げかけた田坂の脳裏には、すぐに寺を囲む地形が描かれたようだった。
確かに南には、桂川の流れがある。
そしてこの川はやがて加茂川と合流し、大坂に至り淀川となる。
「奴等、舟を使うつもりか・・・」
舟に乗りこめば、おのずと大坂まで流れに任せる事ができるだろう。
だからこそ、一刻の猶予もならなかった。
だが土方は闇に目を凝らし、山門を睨みつけるようにして動かない。
「置いて行く」
「待てっ」
川べりの道へと踏み出した八郎の背に、険しい声が飛んだ。
「待てん」
振り返りざま向けられたのは、闇に在るをものともしない、挑むような視線だった。
「総司は無事だ」
「何故分かる」
「建物の中にあるうちは、奴等は総司に手を出せない」
「どういうことだ」
問う声は、際まで引いて射た矢の如き鋭さで発せられた。
まだ土方にはこの期に及んで秘めておいた事があると言うのか――――
その応えに少しでも承知できねば、今度こそ己の動きを止める者は容赦しないと、八郎の双眸が土方を捉えた。
「籐屋伝五郎を通じ、今の嵯峨の総年寄、材木商白木屋太兵と取引をした」
「伝五郎・・」
怪訝に呟いたのは、田坂だった。
「そう、伝五郎だ。あの家作の持ち主だ」
思わぬ応えに、流石に田坂の目が驚きに瞠られた。
「伝五郎の事を詳しく話している暇は無い。だが伝五郎自身は洛中外に名が知られた人物だ。その伝手を頼って、この寺に今一番の力を持つ白木屋を動かした。嵯峨と云う土地は、天竜寺と仁和寺の寺領だが、天竜寺は焼けた建物の再建に金を必要としている。白木屋の財力が頼りだ。それ故大方の事は聞く。その白木屋を使い、中に人質となっている者を差し出せと、寺から長州へ、そして長州から囚らえている奴等に圧力をかけている。・・・・事の成り行きを判別できぬまま、今此方から下手に動けば悪戯に刺激するだけになり、追い詰められた奴等は自暴自棄となる。そうなれば総司の身が危うい」
険しい視線を、おもむろに自分にぶつけている二人を等分に見渡して、土方は一気に語り終えた。
「同時に、見回組の佐々木に使いを出した。長州の残党が天竜寺の塔頭に集結していると」
「見回組に?」
八郎の面に、隠せぬ不審が浮かんだ。
新撰組と常に対峙する関係にある見回組に、土方から接触を持ち情報を流すなど、この男の気質からして有り得る事ではない。
だが湧いた疑惑も一瞬の事で、八郎は、瞬時に土方の意図した処を読み取った。
土方は、天竜寺にとって物資両面の援助がどうしても必要である白木屋を使って寺を動かし、その寺は更に命じられた通りに長州に圧力を掛け、総司と清一郎を拉致している輩から人質の解放を迫らせた。
これで寺の内部にいる者達を互いで縛る均衡を作り上げ、二人の身の安全を計った。
そして弘前藩に、長州に対して脱藩者を引渡さねば今後阿片を売らないと、外からも脅しをかけさせている。
京での後援者たる天竜寺と、これからの阿片の取引先である弘前藩とに二重に迫られた長州藩は、厄介且つ危険な存在となった者達を、当然手の内から追い出そうとするだろう。
更に見回組を動かすことで、土方はその長州藩をも同時に封じようとしている。
だがこれだけ緻密な策を立てながら、新撰組は影すら見せない。
手柄は全て見回組が持って行くのだ。
それを土方は良しとした。
統率者として決して強気を崩さないこの男が、今組織を捨てた。
そうしてまでも。
土方は総司ひとりの為に動いた。
唯一の者の命脈を繋ぎとめる術だけが、今土方を占める全てなのだ。
しかしその時八郎の胸に、堰を切られた奔流のように逆巻いたのは、恋敵に対する激しい負けん気だった。
「勝算は?あんたの応えによっては、俺の短気は聞かないぜ」
問う声は、躊躇する間も許さず険しい。
「見回組が到着すれば長州も、それを匿っている寺も慌てふためく。そしてその煽りを喰って、奴等は炙り出される。逃げ場は川だ。舟に移る其処を襲い、総司を取り戻す。京から逃れようとする限り、総司という人質を、奴等は必要とする。だから総司は無事だ。・・・必ず、無事だ」
無事だと、二度繰り返した時、それは自分自身の裡に刻み込むような低い唸りになった。
闇を見据える土方の双眸が、八郎の、更にその向こうの敵に対峙するかのように、厳として鋭く細められた。
土方とて、ぎりぎりの処で己を抑えて踏みとどまっているのだろう。
両の拳は固く握り締められ、先ほどから一度も開かれる事は無い。
それがこの男の、際などとっくに超えた焦燥と苛立ちを物語っていた。
「川に舟の用意は?」
田坂が後ろから問うた。
すでに其処に向かうつもりなのだろう、体は大方前に動き出そうとしていた。
「一艘だけ、繋いである」
それは予期してそうしてあるのだと告げる、言い回しだった。
「見張りは山崎さんあたりかえ?」
全て周到に張り巡らされている事柄に、半ば呆れ、半ば皮肉な八郎の口調だった。
だが突然、その三人の会話が、何が切欠でもなく不自然に途切れた。
此処に居る者以外声を発することなければ、川の流れ行く音だけが唯一だった闇の中に、確かに地に響く幾多の足音が聞こえる。
視線を後方に移した時、未だ遥かに遠いが、敵を囲む為の松明の灯りが見え隠れした。
見回組が、到着したのだろう。
「来たようだな」
八郎の呟きの全部が終わらぬ内に、土方が横をすり抜けた。
「策謀の次は抜け駆けか・・・」
呟いた田坂が、八郎よりも一瞬早くその背を追った。
「どうにも好かないねぇ」
だが身を翻して続く八郎の動きも又、叩いた軽口にある悠長とは裏腹に、疾風迅雷の如く俊敏なものだった。
舟の繋がれている川べりへ・・・・
三っつの影が、更に深い闇に消えた。
脇差とて、長く構えを強いられれば、傷ついた身には酷い負担となる。
対峙しながら相手が一歩も踏み出せないのは、研ぎ澄まされた総司の鋭敏な神経と、強靭な精神力が作らせぬ隙のせいだった。
だがそれも時の経過と共に、おのずと緩んで来るのを相手も十分承知しているようで、その僅かな綻びを、獣が獲物を狙い定めるように待っている。
清一郎を庇っているのも、総司にとっては形勢が悪い。
向かう相手は四人。
このままでは自分の身体の内に残っている力が尽きるのも目に見える。
一度此方から仕掛け、正面の男の懐に飛び込み、太刀が振り下ろされるより早く脇差を横に薙ぎ、それに挑発された他の相手が向かい来るのを倒す事は。
―――無理だろう
三人ならば、残り二人が左右から刃を向けるとも考えられる。
だが四人となれば、一人は必ずや清一郎を襲うだろう。
あらゆる状況を想定し、何とか道を切り開こうと、総司の思考は唯一その事だけに占められる。
だがあまりにそれに捉われていたせいか、背後の清一郎の僅かな動きを見過ごした。
それは止めようの無い、瞬くの間の出来事だった。
「この人は関係あらへんっ」
後ろに隠すようにしていた総司の手を制して、清一郎の体がつと前にでた。
自分の盾になるように立ちはだかった姿に、一瞬視線が逸れた事で出来た隙を逃さず、一番右端の男が地を這うような唸り声と共に襲い掛かり、太刀を振り下ろして来た。
それを短い脇差で受けると同じ動きの中で、総司は清一郎を力の限り突き飛ばしていた。
かわした刃が相手の元へと戻る前に、倒れた清一郎の前に回り込み、再び距離を置いたが、その挙措に費やした僅差こそが、総司にとっては計り知れない不利となり、相手にとってはこの上ない有利となる。
寸暇を置かず二の太刀が振り下ろされた。
それを辛うじて受け止めはしたものの、あまりに己の身近くでの力と力のせめぎ合いは、どうあっても総司に分が悪すぎた。
元々が力の無い分を、代わりに生まれ持った俊敏さで補っていた総司である。
こういう状況になれば、凌いで稼ぐ時すら人に劣る。
まして今の状態では押し返す事など到底叶わない。
額から流れる冷たい汗を、瞳を細める事で遣り過ごし敵を見据えたまま、今の総司には、この均整を崩させないのが精一杯だった。
最悪な体調の中で、どうにか相手の力を止めてはいるが、それも限界が近くなって来ているのか、次第に二の腕までもが痙攣するように小刻みに震え始めた。
これが限りかと目を瞑りかけた一瞬、瞼の裏に朧に形作られた影があった。
紛れも無い。
それは決して違う事無い、土方その人の姿だった。
土方が不安になる―――
不意に胸を過ぎった思いに、熱に侵され朧になりかけていた総司の意識が、肉体を苛んでいる苦痛と共に現に戻った。
自分がいなくなれば、土方が不安になる―――
・・・・頑是無い思いの行き先にあるものは、唯一の者を苦しめまいと、護らなければならないのだと、人を想う心の一番真中に位置する感情だったのかもしれない。
他人に問えば埒も無いと笑うに違いないそれは、しかし今一度、総司を突き動かすのに十分だった。
少しずつ迫る相手の太刀を、最後かとも思える渾身の力で押し返そうとしたその時。
「阿片の在り処など教えてやるっ」
己の息する音すら定かには聞えなかった緊迫した空気を破ったのは、憤りの塊を形に成してぶつけたような、清一郎の叫びだった。
「その人に、手ぇだすなっ」
いつの間にか立ち上がっていた清一郎が、総司に刃を突きつけていた男に威嚇の目を向けた。
「おまえらもう悠長な事言うてる間が無い、さっきそう言うたな。藩に追われる身が、匿ってくれてた長州にまでお払い箱か。それやったら、逃げるには金がいるなぁ」
強気の脅しは、それが必死の虚勢だと、硬い横顔と、時折震える語尾で分かる。
だが勢いのままに、激昂は止まらない。
「おまえら今こそ、阿片が喉から手が出る程欲しいんと違うかっ」
出口を閉ざされた室に、満面朱を注いだ清一郎の怒号が響く。
もしも一歩でも振り返ったら、きっとその場で崩れしゃがんでしまう程に、体にある全部の神経が、触れれば音を立てて切れてしまいそうに張り詰められていた。
それでも清一郎は、もう怯まなない、臆さない。
自分を陥れた者、自分に兄を殺させた者達への憤怒が、今自分自身をも見失わせて迸る。
「違うかっ」
咆哮のような唸りが、闇を震わせ、蝋燭の焔を薙いだ。
かなう限りで敵を脅す声を聞きながら、総司は清一郎の感情がこれ以上激さない事を祈っていた。
相手は思いの他、焦っている。
手負いの獣は、先を算段する余裕など持たない。
刺激を繰り返せば、やがて焦りと怒りのまま、清一郎を亡き者にしようとするだろう。
今自分と刃を合わせている相手の力も、緩むどころか、挑発に昂ぶった神経の持って行き場のように力任せに押してくる。
体力の限界は、疾うに越えている。
だが此処で斃される訳にはゆかなかった。
清一郎を護らなければならない。
そして・・・・
土方が待っている其処に、自分は還らなければならない。
必ず、還らなければならない。
目を見開いて霞む視界の先を見据え、あるだけの力を柄を握る手に籠めた寸座、それまで互いに一歩も譲らなかった力の均衡が不意に破れた。
相手が、交えていた刀を一度押して総司から離れると、そのまま後ろに飛び退り、先ほどと同じ距離を保ったのだ。
反動で、前のめりに傾ぎそうになった身体を漸く止めはしたが、瞳だけは総司の勝気を露にして、一瞬たりとも男達から逸らされない。
吸う事も侭ならなかった息が、堪えるのを解き放たれたかのように、唇から乱れて漏れる。
此方に近づく別の人の気配を漸く知る事が出来たのは、もう指一本も動かす事が出来ない情け無い自分を叱咤した時だった。
その総司に視線を据えてはいたが、男達の神経は、すぐ其処まで来ていた足音に捕らわれているようだった。
急(せ)いて駆けつけてきた男は、切迫した空気に圧されて一度足を踏み止めたが、すぐにそれすら意に介さないように真中の首領らしき男の元まで来ると、何やら耳打ちした。
周りを囲む者達も、大よその検討はついたのだろう。
寸前まで総司に向けられていた殺気が、俄に削がれた。
代わりに何処か足元の落ち着かなさが、この男達を支配した。
思いがけなく出来たこの隙を縫って斬り込めば、血路を開く事ができるかもしれない。
だが自分の身に残っている力は尽き果て、それを相手に悟られず清一郎を庇うことが、今の総司には精一杯だった。
身体を苛む苦痛は冷たい汗を滴らせ、視界を邪魔する。
それよりも、僅かにでも油断すればすぐさま遠のく意識こそ、どうあっても繋ぎとめておかねばならない。
相手が浮き足立っているのは、状況が不利に動き始めたからだ。
此処を出て、又何処かに逃げなくてはならない事態に陥ったのだろう。
だとすれば・・・
或いはこのまま持ち堪える事ができるかもしれない。
それが唯一、総司にとって希の綱だった。
「教えると、そう言ったな、阿片の在り処」
ゆっくりと、中央の男が、総司ではなく清一郎に顔を向けた。
「この人を此処から逃してからや」
応えながら、敵の間に立ちはだかり、身ひとつで自分を護ってくれている薄い背に、清一郎はつと視線を向けた。
荒く繰り返される呼吸で肩甲骨の辺りが大きく上下する身体は、もうこうして立っていることすら気力だけに支えられているのだろう。
幾度も、幾度も、ひとり逃れようと思えばそうする機会はあったのに、常に庇い護ってくれたこの若者こそ、今度は自分が助けなければならない。
殺した人間は、ひとりだけで十分だった。
「この人の無事を見届けてからや」
二度目の判を強いる声は、今度は場違いな程に静かだった。
「私は清一郎さんと一緒に行く」
後ろを見ないで、敵に視線を合わせたまま、言葉の最後に覆いかぶせるようにして、総司が鋭く言い切った。
「迷惑やっ」
「迷惑でもいいっ」
間髪を置かずに返った応えは、この頼りなげな若者に、こんな強靭さがあったのかと、一瞬清一郎が息を呑む激しさだった。
「・・・私は、新撰組の沖田です」
その清一郎の逡巡に目もくれず、総司の声は、今度は対する者達に向けられた。
相手の中に、僅かな動揺が走った。
京で密かに法度を犯そうと企てる人間ならば、新撰組は用心せねばならない存在だった。
ましてその幹部となれば、もうこの者達は自分の名を知り得ている筈だ、それに総司は賭けた。
「・・・私を逃せば・・、きっと厄介なことになる。・・・けれど、貴方達が人質として捕えて逃げるには、都合の良い人間の筈です」
総司の言葉は、ようよう繋げる息のせいで途中が切れる。
だが硬い声音は精神の強さを秘め、臆する処を知らない。
「新撰組の沖田とは承知している。確かにその貴殿を、人質として預かっていると脅せば、逃れる道のひとつふたつは開けるだろう。だが京を脱するに厄介な相手は、新撰組だけでは無い」
先ほどから会話を独りで為している男の猜疑は執拗だった。
「・・・見回組のことを言っているのならば、新撰組はその力をも封じる事ができます。・・・清一郎さんを見回組の監視下から外して、手を引かせたのは新撰組です。その事は清一郎さんが良く知っている筈です」
「知らんっ、そないな事は知らんっ」
言葉の後からすぐさま否と拒む声の必死さが、逆にそれが真実だと、皮肉にも告げているのが清一郎には分からない。
「盾になると、思って良さそうだ」
そう判じた男の目は、だがまだ全部を信じているわけではなかった。
それが証拠に未だ総司という人間の価値を値踏みするように、投げかけた無遠慮な視線を外さない。
「福本さん」
それが男の名だったのだろう。
遅れて来て耳打ちした男が、痺れを切らせたように顔を向けた。
「舟の用意はできている。少しも早く此処を出ろということだ。長州藩も逃げた」
「長州が?」
「じき囲まれるらしい。残されたのは俺たちだけだ」
伝える者の声は焦燥に駆られ、重い訛りに不釣合いな早口だった。
「厄介者はさっさと放免したいか・・・」
皮肉に笑って緩む筈の福本の頬が強張った。
「一か八か・・・、貴殿の言葉、信じる他なさそうだな。人質とあらばその脇差、要らぬものだろう」
寄越せと命じて差し出したのが、素手である事の大胆さは、後ろにいる清一郎への懸念が総司の自由を奪っていると念頭にあるからだろう。
相手の偉丈高な欲求に一瞬逡巡した総司だったが、やがて命の緒のように決して離さなかった柄を握り締めていた指から力が抜け、葉にあった露が滑るかのように、刃は鈍い波光を描き、着いた床に無遠慮な音を立てて転がった。
「あかんっ」
悲鳴のように叫んで、それを映す眸から脳裏にまで、かの光景が届くか否かの際どさで、影のように素早い身のこなしで後ろに回った男が、清一郎の両手を後ろで一つに束ね上げた。
一瞬の内に現に戻り、自由を奪うものから逃れようと身を捩っても、頑強な力はそれを許さない。
だが次の瞬間、激しく咳込む音が更に聴覚を襲い、咄嗟に視線をやった清一郎は息を呑んだ。
同じように後ろから拘束された総司の目から下が、節の太い頑強な手によって白い布で覆われ、その咳すら瞬く間に止められた。
清一郎の鼻腔も、不快なものが刺激する。
むせ返るようなこの匂いがすぐに阿片と気付いた刹那、総司が前に傾いでゆっくりと沈んで行くのを、愕然と清一郎の眸が映し出し、もう何も抗わない身体が、いとも容易く後ろの男に支えられ、そのまま肩に担ぎ上げられた。
「沖田はんっ」
叫び声は遠く届かず、乱れてほつれた幾筋かの髪だけが、唯一生あるもののように蒼白な頬に翳りを落とした。
「新撰組の沖田・・、この名に賭けてみる他なさそうだな」
老獪に薄い笑いを浮かべた男に、清一郎の怒りが焔となって向けられた。
「これ以上この人を傷つけたら阿片は渡さんっ、舌噛み切っても言わんかて、よう覚えておけっ」
それは力弱き生き物が、追い詰められて追い詰められて、最後に立った崖淵で逆襲に牙剥いたような、見るものを一瞬臆させる憤怒の形だった。
「動きがありました」
伝吉の目は相手の顔貌(かおかたち)を判別できない暗さであっても常に鋭い。
「ですがそれは長州の奴等です」
「舟を使ってか」
闇に紛れるように、互いに腰を低くし片膝を地に付けて返す土方の声が低い。
「いえ、裏の山へと逃げました」
「夜更けて峠越えかえ?難儀なことだな」
挟んだ口調は軽いものだが、灯りの下で見れば、八郎の顔にそんな兆候は僅かにも無いだろう。
そう思わせるような、この男にしては珍しく硬い声だった。
表は見回組がそろそろ到着し、布陣を敷き始めている頃だろう。
本来ならば舟に乗り、大坂まで一気に下りたい処であろうが、追われる身ならばその道は、知られすぎている故にあまりに危険だ。
まだ囲まれていない裏手から脱出し、山の中に逃れれば、あとは闇夜が目隠しをしてくれる。
或いは夜を徹して峠を越え、西国街道へ出、国元へとひた走るつもりなのかもしれない。
だが長州の残党がその何れの経緯を取ろうと、土方にとって今は知るところでは無かった。
「奴等は?」
問うたのは唯ひとつ、総司を囚えている者共の動きだけだった。
「まだ」
間を置かずに戻った短い応えに、伝吉の焦れる心があった。
「此処に連れられて来て、どの位が経つ?」
過ぎた時のどれ程かを聞いたのは、田坂の医者としての危惧だった。
もしも阿片を吸わせられていれば、浸された時の経過が憂慮の火種となる。
「かれこれふた刻(とき)には」
「ふた刻・・・」
そのまま繰り返した呟きの重さが、田坂の思案の先にある難しさを物語っていた。
阿片というものは幾度か吸引の後、幻覚、幻聴を呼び起こし、やがて常用が始まり、果てはそれが無くてはならない状態にまで追い込まれる。
そうしてその時には、すでに人としての尊厳は失われている。
ふた刻ならば、例え身の内が阿片に侵されても、まだそれから先に陥る過程は防ぐことができるだろう。
が、今田坂を何よりも焦燥の中に置いているのは、宿痾で壊れかけている総司の肺腑への負担だった。
強いものを吸わせられれば弱った器官は抗い、息する道を塞ぐ。
一瞬にして、呼吸は止まるだろう。
この推測を、何を失くしても、現の結果とさせてはならない。
もうここで足を止めている訳には行かなかった。
「土方さんっ」
田坂の短い叫びが、闇を貫き直截に土方へと向けられた。
「奴等が出てくるのを待ってはいられない」
医師としての田坂の言葉が、どういう事を意味するのか。
その先を語らずとも、すぐさま土方と八郎には判じられたようだった。
「今にこちら側にも、煩い奴等が来るだろうよ」
八郎の更に容赦無い促迫が、土方を追い詰める。
表を塞ぐと同時に、側面裏手と、見回組は隈なくこの寺の周りを囲み込むだろう。
そうすれば外から中へ踏み込むのが難しくなる。
待っている猶予は無かった。
不意に立ち上がった土方が、前方に浮かぶ建物が作る一段濃い闇を見据えた。
双つの目にはそれだけしか映さず、耳に届くものは全て排し、微塵も動かぬ背には、すでに戦いの中にいる峻厳さがあった。
今物言わば―――
この男の応えはきっと怒声なのだろう、八郎にはそう思えた。
だがそれに少しも気圧されず、八郎の右の足が土方よりも一歩先んじて前に踏み出た。
「行くよ」
気負いの無い声だけが、もう一瞬の躊躇いも無く走り出した主の後に残された。
追うのではなく、己の先を行くものを許さぬように、土方の足が闇に風を起して地を蹴った。
「伝吉さん、あんた匕首か何か持っているか?」
声をひそめて聞いたのは、田坂だった。
頷く所作の内にも、この寡黙な男の目にある鋭い光は消えない。
「では悪いがそれを少しの間貸して欲しい」
伝吉は腰帯に差していた匕首ではない、もう少し長い小刀を田坂に渡した。
だがそれを片手で受け取り、ふたつの影を追い、音を消して走り出すまでの素早さ、隙無い鮮やかな身粉しは、流れるような一連の動きの中で些かの弛みも無く、大抵の事には動じない伝吉の顔を驚愕に染めさせた。
この医師の持つ技量は、自分の知りうる剣技の持ち主達に勝るとも劣らぬ、想像を遥かに超えて並外れたものなのかもしれない。
視界から消え行く背を見ながら、伝吉は去って行った者達に次に見(まみ)える時、きっと自分の憂いを晴らし、もうひとつ違う姿を、必ずや目にする事ができる僥倖を、すでに確信として掌中に収めていた。
事件簿の部屋 雪時雨(十壱)
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