雪時雨 -yukishigure- (十壱)
天竜寺は広大な地領を誇り、寺社仏閣が勢力を振るう京にあっても常に高い地位を占めてきた。
度重なる火災により、刻んできた歴史の中で幾度か焼失の憂き目を見たが、その都度鮮やかに再建され蘇る事ができた陰には、この奥に植栽された豊かな木材資源を生業とする豪商達との結びつきがあった。
その内の一人、福田理兵衛は長州藩の強い後援者だったが、一昨年の禁門の変の際には一兵卒として参戦、敗北後息子と共にかの西国の地に逃亡していた。
今土方が板敷きを踏みしめる、夜陰にひとつの音無く沈むこの建物も理兵衛の寄贈による。
そしてもとよりそれは、長州藩の、京での拠点となるべくあてがわれたものだった。
「何処かに隠し部屋がある筈だ」
伝える声の主は、手にした蜀蝋の灯りだけを頼りに、次々と襖を開け放って行く。
鴨居に掛けられた槍は、あくまでも実践用に置かれたものなのだろう。
鞘を外せばすぐさま敵を迎え撃つ凶器となるそれは、寺には不釣合いな調度品だった。
「田坂さん、あんたそれだけで大丈夫かえ」
八郎の問いは、田坂が無造作に持つ小刀の事を言っていた。
身を護るのならば足りるだろうが、数の知れない敵と対峙するには些か心元無いと八郎は危惧した。
「十分すぎるさ」
だが応えは、呆気無い程に短い。
それが田坂の、焦れる胸の裡を物語っていた。
そんな互いの心中を察するだけの会話が、ふと途切れた。
一番前にいた土方の背に、俄かに緊張が走るのが、目を凝らす程の暗さの中でも八郎に分かった。
そして又同時に己の親指が、切るばかりに鯉口に掛けられた。
幾多の足音が、憚りを忘れたように、板敷きを軋ませる遠慮の無い音を闇に和す。
「・・・大した腕の奴等ではなさそうだな」
八郎の呟きは、誰に向けたものではない独り語りだったが、後ろを振り返らず、土方は無言で頷いた。
警戒というものは残ってはいるのだろうが、今相手を占めているのはそんなものをも忘れさせる、逃避への焦りだけらしかった。
敵は無防備に、しかも確実に此方へと近づいてくる。
だが室の一つに身を隠し待つ身には、瞬く時すら久遠のものに思える。
気配は複数だが、決してまばらではない。
少なくとも一団で固まっている。
だとしたら最初の一太刀で不意を突けば、おのずと輪は崩れる。
その隙に囚われている者の状態を見極め、救い出す為に最も迅速な動きを為す事が可能だろう。
「総司を確かめたら、なるべく中に誘い入れてくれ」
それは声と言えたのか・・・・
吐く息をだけで物言うような、八郎の低い囁きだった。
鴨居や柱やらで、屋内で刀を合わせるのはただですら制限される。
幅の狭い廊下では尚更の事だ。
それ故、少しでも動きの自由を束縛されない手立てを取れと、八郎は言っていた。
耳をそばだてれば、迫り来る足音の中にひとつだけ、後ろへと抗うように乱れる、明らかに異なる音が聞こえる。
あれは誰のものか。
総司か、河合清一郎か―――
後ろには八郎と田坂がいる。
如何な事態に陥ったとすれ、総司の無事は必ず護る事が出来る。
それは土方の確信だった。
相手方の持つ蝋燭の灯りが、闇を朧に照らし、先頭の男の影を主より先に進める。
己の鼓動が高鳴り増すのを数え、吐くものか吸うものか、そのどちらか分からぬ程に息を詰め、一箇所に視線を止めて待つ土方の視界が、遂に伸びた影の端を捉えた。
「殺すな」
「俺は新撰組じゃないよ」
互いの顔を見ず交わされた軽口が、全ての合図だった。
言いざまに躍り出た土方に、突然視界を遮られ、もんどり打って倒れた男は、己を襲ったものの正体を見極めずに床に沈んだに違いない。
それほど疾く素早さで、刀は袈裟懸けに振り下ろされた。
だが斬った瞬間から相手は眼中に無く、土方の目が探したのは唯一想い人の姿だった。
「総司っ」
迸った声が、己(おの)が叫びに応えろと、闇をつんざく。
「ここやっ」
だが応じて返ったのは、渇望していたものではなかった。
風切るような鋭さで其方を振り向いた土方の双眸が、縄で腕を後ろに戒められた清一郎の、体ごと後ろの人間にぶつかっていく様を映し出した。
その刹那、捨て身の打撃をまともに受け、よろめいた男の肩に担ぎ上げられていた何かが、反動で滑り落ちた。
「総司っ」
それが捜し求めていた姿であると瞬時に察し呼ぶと同じくして、土方は前を阻む者を刃で退けて走り出していた。
容赦ない刃を真っ向からくらい、蹈鞴(たたら)を踏んで前のめりになった敵を、月牙の如き一瞬の弧を描き流れた、八郎の二の太刀が更に迎え討った。
その二人の脇を、体に似ない敏捷さですり抜けた大柄な男の、咆哮にも似た唸りと共に振り下ろされた刃よりも早く、低く沈んだ田坂が、転瞬、漆黒に銀の波光を一閃させ、相手の胴を横に薙ぎっていた。
床に落ちた時に僅かに鈍い音をさせはしたが、そのまま弛緩した身体は動かない。
伏したまま幾ら呼んでも応えぬ主の元まで辿り着くのに、一体どれ程の時を天は授けるのか―――
行く手を邪魔する二人に一太刀づつ浴びせ、後は目もくれず、神仏に怒り、天に憤り、土方の眸はただ総司にだけ釘付けられている。
漸く達した其処に、地から這う蔦に絡められたようにぴたりと足を止め、血潮が捲かれた刃を手に、荒い息で見下ろす男の顔を、清一郎は微かにも動かない総司の横に座り込み、戒められた腕のままで見上げた。
「・・・総司、どうした」
膝をつき、己が指で蒼白な頬をなぞり、呼びかける土方のそれは、先ほどまで清一郎が目にしていた修羅を渡る鬼の形相ではない。
むしろ何かに恐怖するように、端正な横顔は酷く強張っている。
「阿片を嗅がされたのか?」
更に横に来て問い質すのは、田坂の声だった。
無言で頷く硬い顔に、問うた目が険しさを湛えた。
暫し、瞳開かない者の、血潮の流れる音、漏れる息の緒を探る医師の五感を妨げぬよう、誰もが沈黙を出ず精神の緊縛の中にいたが、遂に求め欲していたものに触れた時、田坂の身が咄嗟に伏せられ、総司の唇に己の耳朶を近づけた。
だが確かめる呼吸には、笛吹くような細い音が混じる。
「気道が細くなっている」
重い呟きに、清一郎の背後に廻り無言で縄を切っていた八郎の眸が、一瞬鋭く細められた。
「あばら骨も折れているかもしれへんっ」
戒めから解放され、自由を取り戻した清一郎の両腕が田坂を掴み、縋るようにして叫んだ。
「助けてやってやっ」
必死の叫びが、室の壁に天井に、跳ね返り木霊する。
先程から腕に抱く薄い身体だけを眸に映し、周りに居る者を一瞥もしない土方の指が伸び、自分から総司を隠しているものはひとつでも除けるように、蒼い頬に乱れてかかる髪を掬った。
「・・・どうして目を開けない」
問いかける先にあるのは、虚しいばかりの静寂だけだった。
「総司っ」
応えを寄越さない者に憤る声が、雷(いかずち)のように冷気を引き裂いた。
或いは・・・・
それは見守る者の懇願が引き寄せた僥倖だったのか。
幾度目かの呼ぶ声が響いた時、不意に翳だけを落としていた睫が震え、やがてうっすらと瞼が開きかけたが、照らす蝋燭の仄かな明るさすら眩しいのか、すぐに又閉じられようとした。
「総司っ」
だが再び眠りに堕ちるを許さない、土方の声が飛ぶ。
「・・・苦しいのか?」
暫らく、現に戻った瞳は呼びかける人の像をぼんやりと映してはいたが、それが土方だと分かると、判じるに難しい僅かな仕草で否と首が振られた。
細い息の通り道は、まだ総司を辛い呻吟の内から離さないようで、何かを言おうとしている唇の動きは意志を形成す事が出来ず、それが辛いのか、蒼い面輪が苦しそうに歪んだ。
「声を出そうとするな」
叱る田坂にも抗い、まだ伝えようとする所作を続けるが、ひとつも思うにならない自分に焦れて、今度は渾身の力で身を捩る。
「河合の弟ならば無事だ」
きっとその事を知りたいのだと察し、告げた八郎の声にも満たされないのか、総司の視線はそれが確かだという証を求めて尚も彷徨う。
「うちは無事やっ」
逸った声の主は、囲む者達を押し退けるようにして、自分を探す視界に自らの姿を晒した。
「無事や・・・」
己が両頬を熱く伝わるものを堪える為に幾度か瞬きし、深い色の瞳に、清一郎はぎこちなく笑い掛けた。
それを映し、漸く微かに頷くと、今一度総司は土方に視線を移した。
自分を凝視し微塵だに動かぬ双つの眸に、大丈夫だと、案ずるなと、言葉で伝えられないのならば身で知らしめるように、力の入らぬ手を床につけ、無理にも身体を起そうとした。
だがそんなささやかな願いも、主の言う事など疾うに聞かぬ身は許さず、動いた拍子に、胸の真中を焼けた火箸で突き刺され、骨が砕け散るような激痛が襲った。
耳元で名を呼ぶ声が遠のくのを聞きながら、今度こそ総司は、唯一安堵できる腕の中で、深い眠りの淵へと、たゆたうように己を投じた。
「殺すなと言ったのはあんただぜ」
行儀などと云うものはとっくに忘れ去ったように、八郎は胡座をかいた右膝に片肘を乗せて頬杖にし、目の前の男を見もせず、どうにも面白くなさそうに呟いた。
だがそれが洒脱に映るのは、この男の生まれ持って来たものなのだろう。
「誰が殺した」
応えた声も、一層低い。
「あんな斬り方をされるのならば、いっそ急所を突いてやった方が、親切というものだろうよ」
「口がきけりゃ十分だ」
「端っから斬るつもりがなけりゃ、刃は返しておくだろう」
「最初の一太刀だけだ」
苦々しげに、まだ不満の尽きぬ様で毒づく相手に、土方も歪めた顔を隠さない。
互いに遠慮の無い不機嫌のぶつけ合いは、襖ひとつ隔てた隣の部屋からまだ出てこぬ田坂と、病人の容態を知り得ずに待つ身の苛立ちからだった。
あれから見回組に踏み込まれるのを寸での処で避け、繋いであった綱を切るばかりに用意されていた舟に乗り込み、伝吉の操る櫓で七条まで川を下った。
辿りついた岸には、これも山崎が、時を計ったように馬を手配してあり、それらの行程を経て屯所に戻って来るまで、半刻も必要としなかった。
途中、舟の中で総司の意識は一度戻り、案ずる声には気丈に頷く仕草を繰り返しはしたが、額に浮く冷たい汗を己が手で拭うこともできず、土方に抱えるように支えられて、細い息を繰り返すのが精一杯の様子だった。
案ずるなと云う田坂の言葉を信じてはいたが、それでも顔を見ぬ内は尽きぬ不安の方が遥かに大きい。
「それにしても・・・。あいつはどうして、こう余分な事に首を突っ込みたがるか」
些か八つ当たりにも飽きてきたのか、八郎が独りごちた。
戻らない応えから、苦虫を潰したような顔をしているだろう土方を察して、漸く興が動いたのか八郎が振り返った。
「足に枷でもつけて、何処かへ閉じ込めておくかえ」
「それが出来たらとっくにそうしている」
「する甲斐性が無いんだろうよ」
「好きに言え」
無愛想に短く言い放って横を向いてしまった土方は、だがそれを絵空事では無く現のものとして念じているに相違無い。
己が思いがそうならば、恋敵の心裡が、八郎には手に取るように分かる。
そんな会話が不意に止った。
隣の部屋で人の動く気配がし、それが音もさせずに此方へとやって来る。
二つの視線に縫いとめられた襖が静かに開けられると、田坂の長身が現われた。
そのまま後ろ手で、我が身ひとつをすり抜けさせた間を閉じ、すでに立ち上がっていた土方の前で足を止めた。
「あばらの、下の方だが、やはりひとつ折れている」
想い人の身の損傷を伝えられ、土方の面が俄かに曇った。
「が、それは暫らく動かさず静かにさせていれば問題はないだろう。大体があばら骨というのは咳ひとつでも折れやすい処だ。その分付くのも早い」
「嗅がされた方はどうだえ?」
問題は其方にあるとでも言うように、八郎の問う調子は性急だった。
「阿片を吸わされたのは、奴等が逃亡する直前に一度だけの事らしい。阿片は幾度か常用しなければ、心配するような害はもたらさない。その一度で塞がれ、狭くなっていた息を通す道も、今はずいぶん回復してきている。無理をさせない程度ならば、短い会話は出来る」
「手数を掛けた」
安堵の色を隠さず浮かべ、土方が頭を下げた。
「こんな事には幸か不幸か、最近では慣らされて来ているが、・・・それよりも本人が、あの清一郎という人間の事をひどく気にしている」
「会わせろと、駄々をこね始めたか。どうにも落ち着かない奴だねぇ」
うんざりと漏れた物言いの妙が、八郎に戻った余裕だった。
だが無事を聞けばこうして会話を交わす間すら、土方には待つに堪えられないのか、つと田坂から離れると、閉じられていた襖を急(せ)く手で開けた。
屏風のその向こうの、夜具の脇に広げられた油紙の黄色い色が、視界に鮮やかに飛び込んで来た。
傷ついた骨の炎症を鎮める為の膏薬を溶いたすり鉢も、折れた個所を固定する為に使い余ったさらしも、まだ治療の終わったそのままに放られている。
片付ける事を後回しにさせる程、想い人はさぞ無理を言ったのだろう。
が、結局は諦めて、その我儘を聞いた田坂の心を思えば、土方の胸の裡に俄かに疼くものがある。
こんな時ですら、嫉妬という業の激しさに振り回される情けない己を苦笑した時、気配を察したのか、掛けられた夜具の中で薄い人の形が動いた。
流石に音を忍ばせ枕辺に回り込んで腰を下ろすと、それを待っていたように向けられた面輪は、血と言うものが一体この者の皮膚の下には通っているのかと思わせる、透けた蒼に彩られていた。
夜着の袷から、幾重にも厚く巻かれた白いさらしが覗く。
だがそれを痛々しいと思うより先に、今この姿が、手を伸ばせば捉え触れられる、目睫の間にあるという確かな現が胸を熱くする。
自分を映し出している瞳を見ればこれ程までに心騒ぎ、声を聞けば狂おしいまでの恋しさの中で、土方は今漸く、体の一番核(さね)が溶け出すような安堵感を感じていた。
「あまり困らせるな」
そんな想いを隠して告げた言葉は、田坂への聞かぬ所業を嗜めたものだったが、総司はそうは受け取らなかったらしく、一瞬にして黒曜石に似た深い色の瞳が不安げに揺れた。
「・・・すみません」
見(まみ)えるを、希(こいねが)っていた人を見上げて詫びる声は、あまりに儚い。
「何故謝る?」
「・・・約束を、破ってしまったから」
瞳には、返る応えを畏怖して、怯えの色さえ湛えられる。
「何の?」
それが自分に黙っては何処にも行かないとの誓いを指しているとは重々承知で、尚も切ない責め句は止まらない。
愛しければ。
意地をしてみたくなる。
いずれ困惑で瞳を伏せてしまうまで・・・・
問い詰めて、追い詰めて、もうお前の縋る先は自分しかないのだと、雁字搦めにして知らしめてやりたい。
とっくに忘れ去ったと思っていたそんな大人気なさを、この者にはまだ遠く足りないとぶつける自分を、土方は苦く笑う他、最早誤魔化す術を持たなかった。
「意地が悪いねぇ」
無遠慮な横槍は、突然開いた襖から、外の冷気と共に入れられた。
果たして意地が悪いのはどちらやら―――
本来ならばそれを無粋と、とことん嫌う筈の自分が為したものだと思えば、唇の端に自嘲の笑みのひとつも浮かぶ。
思いながら八郎も又、勝手に心のままを滑らせる己が口に些か呆れていた。
「河合清一郎は、この人が・・・」
傍らに座し、相手の顔を揶揄するように見て顎をしゃくった。
「どうやら見回組に預けちまったようだぜ」
そのまま視線を、驚いたように自分を見上げる主に、八郎は移した。
「・・・見回組」
繰り返した呟きは、すぐに驚愕に変わり、総司の瞳は否と応えを求めて、今度は土方に向けられた。
「心配するな、見回組には形の上で預けただけだ」
恋敵の要らぬお世話に、渋面を作った土方の声が、凡そ愛想無く応じた。
今回の件を表面上全て見回組に任せ、土方は影すら見せず、あくまで水面下で極秘裏に動いた。
弘前藩と長州藩との取引にも見ぬ振り決め、捕えれば新撰組という組織の威勢を幕閣に誇示できる筈の手柄をも、微妙な力関係にある見回組にあっさりと譲った。
総司を一刻も早くに救い出す為には、そうする道が一番自分達を迅速に動かせると判断した結果だった。
「河合の弟は相変わらずこいつが・・・」
それを説明するのも面白くなさそうに、ちらりと正面に居る八郎に視線を送って土方は漸く口を開いた。
「身元を見回組から引き受け、工藤儀作殺しの容疑が晴れるまで、元の家作で足止めということになった。今伝吉と山崎とで送らせている。無事が確かになるまでは、伝吉がその身を見張る」
懸念と不安が交互に綾なす瞳の総司に案ずるなと伝えはしたが、結局は折れるだけの自分に半ば諦めたような、遣る瀬無い土方の口調だった。
「・・・けれど、工藤という人を殺したのは、清一郎さんではない」
清一郎が無事と知り、蒼い面は強張りを解きかかったが、危惧は消え去らないのか、続けて問う声は沈み、いつもの屈託の無さはまだ見られない。
「あの人も新撰組の庇護の元じゃ、つまらぬ意地も張りたくなるだろうさ」
心落ち着かぬ者を慰撫するように掛けた八郎の言葉だったが、総司にはすぐに意図する処が分かったようだった。
その証のように、咄嗟に土方を振り仰いだ。
河合が腹を切らされた新撰組の中にいる事は、それが例え一時身を護る為であっても、きっと清一郎には辛いことだろう。
増して兄の死が、自分自身に由来することだとしたら・・・
苦し過ぎる心の裡は、慮っても余りある。
その清一郎の心情を、土方は何も言わずに汲み取ってくれたのだ。
向けた瞳が映す先に、相変わらず仏頂面を崩さない横顔がある。
「どうかしたのか?」
見つめる視線を感じたのか、土方が億劫そうに瞳の主に顔を戻した。
それに必死に首を振るだけが、今の総司にはやっとだった。
この胸にある想いを一言でも言葉にしたのなら、きっと自分の視界は滲んでしまう。
そうしたら土方の姿は見えなくなってしまう。
それでも目の奥を熱くするものを、もう自分の意思ではどうにも出来ず、慌てて瞳を閉じたのが、意地の悪い天の仕打ちへの、せめてもの抗いだった。
「どうした」
重ねて問う声音の優しさが、瞼の奥に湧くものを際で堪える自分にはひどく残酷だ。
言葉を返す事も叶わず、総司はもう一度、今度は瞳を閉じたまま微かに首を振った。
「言わなければ分からん」
呆れたような調子と、そんな頑なさを持て余したようにつく溜息と―――
その全てにどうして応えて良いのか、ひとつも分からない。
束ねた髪が右に左に揺れるたび、括り枕を触り乾いた音をさせる。
それに合わせるように、土方の、先程よりもずっと深い二度目の溜息が聞えた。
ふと闇からもどされて薄く開いた瞳は、半ばしか覚醒していない意識の内にも、我知らず求める人の姿を捜す。
やがて視線が、畳の上に、肘枕で横臥している土方を捉えた。
慌てて何かその上に掛けるものをと身体を起こした寸座、突然走った痛みに思わず呻き声が漏れた。
だがそれが耳に届いたらしく、薄闇の中で土方がゆっくりと半身を起こした。
「痛むのか?」
田坂からは、傷自体は心配をすることは無いが、それによる体力の消耗を、元々の病の進行に障わらせぬよう、極力避けねばならないと告げられていた。
痛みを堪えさせずに取り去り、なるべく眠らせるようにとも、叉言われていた。
「無理をするからだ」
動いた為に少し肌蹴た夜具を直す土方の声は、いつもと変わらない。
完全に眠ってはいなかったのだろうが、その暫しの仮睡すら邪魔してしまった事が総司を悔やませる。
「・・・土方さん」
冷たい風が入らぬように夜具と身体の隙を塞さごうとする手を、総司の骨ばった指が触れて止めた。
「痛むのならば薬を煎じてこさせる」
それに総司は首を振って抗った。
「痛くはないのです」
「我慢をするな」
「我慢などしていない・・・。けれど、それでは土方さんが風邪を引いてしまう」
言いながら指差した其処に、脱ぎ捨てた羽織と袴が散らばっていた。
八郎と田坂を見送ったあとも病人の枕辺に付いてい、そのうち疲労と安堵から睡魔に襲われ、着替えるのも面倒になったまでは覚えているが、どうやらそのまままどろんでしまったらしい。
「俺は大丈夫だ」
総司が動こうとしたその訳が、眠っていた自分に何か掛けるものを探していたのだと知り、応えた声が笑いを含んでいた。
そしてこの者の傍らでは、こんなにも他愛なく神経が緩む己に、些か呆れていた。
だが総司はそんな土方を暫し黙って見上げていたが、やがておずおずと躊躇うような仕草で、少しだけ夜具の端を持ち上げた。
その所作の意味する処を土方は瞬時に察したが、敢えて物言わず、想い人の面輪を見遣った。
動かぬまま自分に柔らかな眼差しだけを向ける土方に、総司の困惑は瞬く間に限界に達っしてしまったようで、慌てて瞳を逸らせると、端を持った手を下ろそうとした。
だが閉じられるその寸座、ふわりと掛けていた夜具が宙に浮き、待っていたように滑り込んだ冷たい空気に竦んだのも一瞬の事で、次の瞬間、隙無く身を包み込んだのは肌に触れる人の温もりだった。
「俺はずるいのだろう?」
驚いて見開かれた瞳に、告げた声が揶揄して笑っていた。
すぐにからかわれたのだと気づき、勝気に見上げた面輪が、それまであった透けるような蒼さの中に、鮮やかな朱の色を刷かせた。
「怒るな」
耳朶に触れんばかりの囁きに、抗いの硬さを解かなかった頼りない身体から微かに力抜けるのが、腕に預けられた重みで分かる。
僅かに残る拘りと戸惑いの中から抜け出せず、未だ俯いて顔を上げない想い人に、こうして直に触れていれば、己の堪え性の無さが辛い。
自分から総司を隔つ衣の薄さがひどく酷なものに思える。
胸に巻かれた白い布が、今は限りなく恨めしい。
何よりも・・・・・
我が身の温もりを、分け与えようとした想いがいとおしい。
切ない程に、いとおしい。
「・・怒るな」
腕の中で身じろぎしない者に、二度繰り返し、土方は艶のある黒髪に顔を埋めた。
事件簿の部屋 雪時雨(十弐)-終章-
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