雪時雨 -yukshigure-
(十弐)
天道は一番高い処に回りこみ、時折は薄日も射すというのに、見上げれば相変わらずの厚い雲が天と地を隔ち、吹く風は肌を刺すように冷たい。
今白いものが舞い降りてきても、何の不思議も無い。
「世の中にふたつ近づきたく無いものを上げろと云われたら、迷うことなく新撰組とあんただ」
ごちる声には、この寒空の下、立ち会わされている八郎の不満が籠もる。
「文句を言うな」
返す土方は、不機嫌を露にしている隣の主を見ない。
ただ視線を、土を掘り起こしている伝吉と、脇に屈んで其れを手伝う山崎の姿に止めている。
「文句じゃない、嫌味だ」
動ずる風も無く応えはしたが、八郎も叉、目だけは同じように繰り返される作業を見守っている。
「端から何度も言っているぜ」
「新撰組では無いのだろう?」
相手の皮肉を先取って、土方の凡そ無愛想な物言いだった。
「分かっているのなら、大概にしてくれろ」
「お前が身元の引受人でなけりゃ、そうしてやりたい処だがな。新撰組だけで連れ出すにはまだ色々と煩い」
その声が届いたのか、山崎の横に立っていた河合清一郎が、ちらりと此方を仰ぎ見た。
土方の素っ気無い応えに、八郎の眉根も寄る。
「頼み込んだのはあんただぜ」」
「助かったと思っている」
「それが有り難いと思っている顔かねぇ」
横の男の気性はうんざりとする程知っている。
この先問答を続けたところで、どうせ碌な返事は返って来ないだろう。
「あんたとの付き合いだけは、さっさと仕舞にしたいよ」
「直ぐにでもいいぞ」
今度は即座に戻ってきた応えに、八郎の唇の端に微かに笑みが浮かんだ。
「そうしてやるさ」
「できればな」
一段低くなった声が、それまで為されていた遠慮の無いやりとりから、八郎の恋敵への挑戦に変わっているのを十分に承知して、戻した応えも又容赦の無いものだった。
「副長」
地に片膝つけた姿勢で山崎が声を掛けた時には、土方は伝吉の動きからすでに何かを察したようで、二人に向かって一歩を踏み出していた。
蹲(うずくま)るような姿勢になり、伝吉は埋もれた四角い箱の周りの土を、丁寧に除けている。
「これに間違いはないか?」
顔の強張りを緩めもせず立ち尽くし、少しずつ容(かたち)を覗かせる、木の箱に両目を縫いとめて、清一郎は山崎の問いに一度息を呑み込むようにして頷いた。
漸く伝吉が箱の全てを取り出し、覆いかぶせてあった蓋を取ると、そこに黄色い油紙に幾重にも捲かれた包みがあった。
その一枚一枚を剥いでゆくと、更に真中に五寸程の、本来は飲み水をいれる筈の竹筒が三本。
伝吉は躊躇無くその内の一本を取り上げゆっくりと傾かせると、自分の手の平に少しだけ中のものを振り落とした。
褐色かかったそれは、違える事無い、阿片という名の粉なのだろう。
「案外に、少ないものだな」
覗き込んだ八郎が、正直な感想を漏らした。
「これを弘前藩は一本三千両で長州に売る手筈を整えていた」
「全部で九千両か。竹筒三つで豪勢なものだな」
土方へ返す口調には、驚くよりもそれを揶揄して面白がる風があった。
天竜寺での事件から、十日の余が経っていた。
その間清一郎は、工藤殺しの目星がつくまでの容疑者として、表面上見回組に身を拘束される形になってはいたが、実際には全てが土方の掌中で動かされていた。
見回組には天竜寺に残る長州の残党の動きを情報として提供し、その見返りに、弘前藩脱藩者を捕えた折には、そのまま何も条件をつけず、かの藩に引き渡すと言う確約をさせていた。
工藤儀作が殺されたのは、清一郎に阿片を盗まれたことから起こった仲間割れの結果とはすでに判明していた事だが、土方は弘前藩が万が一でも清一郎に危害を及ぼす事は無いと見極めるまで、見回組預かりとして手を出せない策を取った。
そうして幾日かが過ぎ、事件の大方が落ちついたのを見計らって、今日漸く清一郎に、工藤から盗み取った阿片の隠し場所の在り処へと案内させたのだった。
そしてそれは、壬生寺にある兄河合耆三郎の墓から、僅かばかり後方に枝を伸ばす楠の下にあった。
「それにしても脅し取ろうとした金が五百両とは、あんたも欲の無い事だったな」
阿片の代価が九千両と聞けば、五百両という金はずいぶんと安価なものに思われる。
清一郎に向けた八郎の目が笑っていた。
「五百両でええのや。・・・五百両しかいらん」
竹筒に目を落としたまま返した応えは、自分自身に刻み込むような重い呟きだった。
五百両。
騙され取られ、それが故に兄を死に追いやった金額から、びた一文過不足無く取り戻す事が、この清一郎という人間の矜持だったのだろう。
だがもしも金を取り戻せたとしたら、清一郎はどうするつもりだったのか。
告げる筈の人の名はすでに俗名となっている。
墓石には建立者として、清一郎自身の名がある。
兄を殺した金は戻るが、生ある者は還らない。
そのぶつけどころの無い憤りを、新撰組に向けていたのか・・・
そして総司はそれを、己独りの身で受け止めようとした。
全ては、断罪を下した土方を庇いたいと願うが為に。
思う処に行き着けば、やはり胸の裡に堪えようが無く猛るものがある。
いじらしいと、人に映る姿は、しかし我が身にとっては、己を焼き尽くす苦しい嫉妬の焔にしかならない。
息すれば白く濁る春を忘れた冷気の中で、八郎はそんな自分から目を逸らすように、天を見上げた。
「確かに阿片です」
伝吉と共に、舌先に乗せた僅かな量の粉を、味覚臭覚で確かめていた山崎が顔を上げた。
「伝吉」
それに一度頷くと、土方は伝吉に向けた視線を、そのまま清一郎に流した。
「家作まで送ってやってくれ」
これから清一郎には聞かせることの出来無い、新撰組副長としての仕事が待っているのだろう。
相変わらず表情というものを、あまり表に出さない土方の端正な横顔を見ながら、八郎はその先を探った。
清一郎も硬い顔を崩さず、一度も土方を見ようとはしない。
だがそれは土方にだけではなく、山崎にも伝吉にも、八郎にすら同じ事だった。
新撰組は、やはり清一郎にとってまだ受け容れられないものなのだろう。
伝吉に促されて、去ってゆく後姿を見ながら、八郎は遂に天から落ちてきて頬に当たる白いものを、憂鬱げに視界の端で捉えた。
「あんた、これをどうするつもりだい」
「弘前藩に返してやるさ」
らしくも無い感傷に動いた己を自嘲しながら向けた問いに、土方が当たり前のように応えた。
「新撰組も剛毅なことだな」
揶揄して笑った顔には、だがそれを素直に信じる殊勝さは無い。
「で、どんな風に弘前藩を脅したのやら。・・・聞かせずには居られない筈だぜ。俺はただ働きをする義理は持たないよ」
「それも脅しか」
「さぁな」
「嵯峨の総元、白木屋を覚えているか」
初めから、八郎に隠す気は無かったらしい。
口をついて滑り出した土方の語りには躊躇いが無い。
「あんたが天竜寺を脅すに使った相手だろう?確か、伝手の伝手だとか言っていたが」
元あった通りに、油紙に三つの竹筒を包み直している山崎の器用な手元を見ながら、八郎は記憶を手繰る。
「その白木屋に木材の代金を支払えと言ってある」
「木材?」
「いずれ西本願寺の寺領に建てる、新しい屯所の建物に使う木材の金だ」
「それを白木屋に一手に引き受けさせ、あげく金は弘前藩に支払わせるか」
声音に、呆れた響きが籠もる。
「九千両に比べれば他愛も無い。弘前藩とて一旦は諦めた阿片だ、戻るだけで御の字だろう。何も長州に売らずとも、金に替えれば巨額の値になる。誰もが、損をしない」
「伝五郎と云う人間には?」
「金を預けた」
「金?」
「五百両、預けたそれを誰に貸してもいい。その分の利が伝五郎への礼になる」
「五百両ねぇ・・・」
繰り返した八郎の声が、その奥にある土方の意図を見取って笑いを含んでいた。
「だがその金、借り手がつかねばどうする。伝五郎に利は無い。あんたも礼が出来ないぜ」
「預けた金に期限は無い。借り手が無ければ好きに使うがいい、そのまま冥土の土産にするも勝手だ」
土方は横を向いたまま、眉ひとつ動かすでもなく淡々と言葉を続ける。
きっと―――
馴れ初めまでは知らぬところだが、土方は伝五郎と云う人間の核を見据えて信じ、その伝五郎から金を河合清一郎に貸してやって欲しいと伝えたのだろう。
それを借りるか借りまいかは、清一郎の意志に任せて。
「本当の策士っていうのは、あんたみたいな奴を言うのだろうな」
うんざりと呟いた八郎の息が、先ほどよりもずいぶんと白い。
見れば粉雪が、視界を邪魔する程に風に舞い始めている。
「雪時雨か・・・」
「お前は気に入らないのだろう?」
呟いた八郎に、やっと土方が顔を向けた。
季節はずれの雪を、粋か無粋か―――
自分が粋と言えば八郎は無粋と笑い、無粋と言えば粋と楯突く。
どうせどこまでも互いを通しきるだろう恋敵に向かい、土方の声が皮肉に笑ってくぐもった。
「あんたの逆さ」
そんな目論見などとっくに読んで、浮かべて返した笑みには、憎らしい程の自信がある。
「それよりも・・・、火鉢が役に立ちそうだな」
続けて漏れた独り語りは、土方にではなく、降らせるものを止めない天に向けられた。
それが清一郎の為に総司が拘っていた事柄だと思い当たって、土方もゆっくりと頭上を振り仰いだ。
火鉢がなければ寒いだろうと、そう言って清一郎を案じた総司を自分は叱った。
案外に・・・・
あの時総司をきつく嗜めた正体は、己の心裡に常に巣食い、一度湧き上がればその鎮めるを知らず胸騒がせ、一時も安堵の時をくれぬ嫉妬という感情がさせたものかもしれない。
自分以外の人間に、想い人が心掛ける姿はどうにも許せない。
そんな勝手さを心裡で苦く笑って戻した視線の先に、次の指示を待って此方を見ている山崎の姿があった。
「弘前藩京都藩邸用人、鈴木太郎左殿だ。話はついている。約束の品、白木屋へ木材代金全額を前金として支払いが終わるまで、当方にて預かりおくと伝えれば足りる」
熱く流れる血は要らぬ、新撰組という組織を束ねる者に戻り、殊更抑揚無く告げた土方の声だった。
普段は近くの子供達の格好の遊び場になるのだろうこの寺も、こんな寒い日では流石に出てくる者もいないらしい。
ひっそりと静まり返った境内の玉石を踏んで、土方に半歩遅れて、その横を八郎は行く。
「借り手は無いような気がするぜ」
不意に掛けた声には、相手に応えを求める強さは無い。
戻らなければそれで仕舞いとするような、素っ気無いものだった。
八郎は己の言葉に含んだものが、外れはしないだろうと思っている。
土方の策と知らなくても、きっと清一郎は伝五郎の好意を受ける事はないだろう。
それはあの清一郎という男の根本を成すものが、案外に強靭な精神に培われているのだという観測からだった。
土方も同じ事を思っている筈だ。
確かなものは一つも無い。
だがそれだけは、勘ではなく確信だった。
恋敵は―――
自分が是と云えば、否と応える。
否と拒めば、是と迫る。
そんな事はとっくの昔に承知している。
だから思う処が一緒ならば、こうして知らぬ振りを決め込み応えを返さない。
だが其れは又そのまま、生涯に渡り、自分がこの男に向き合う様と、そっくり同じものだった。
「辛抱のいることだねぇ」
告げた言葉は土方へか、己自身へか・・・・
つまらぬ意地と矜持の張り合いでも、決して負けたと譲らぬ背に、揶揄して掛かった声が笑っていた。
「そんなん気を遣わんといておくれやす。どうせ空いている家やったんやし。助かったのはこっちの方ですわ」
伝五郎と、その名を小川屋が教えてくれた初老の男は、白いものの方が多い頭を、もう幾度下げているのか分からない。
それを恐縮の極みに置かれたように身を小さくし、総司は困り果てて見ている。
田坂の言っていたとおり、十日程で怪我は床を離れられるまでに回復したが、まだ不意の身動きで走る痛みには思わず顔を歪めてしまう様に愁眉を開かなかった土方から、外に出る許しをもらえなかった。
短い間ならば知れぬように出かけてしまう事もできたが、自分の勝手な行動から心配をかけたと思えば、流石に総司も今回ばかりは大人しく顔色を伺う他なかった。
そうして焦れる時を過ごして来たが、今朝山崎から、工藤儀作殺しの容疑が晴れた清一郎が明日にでも播磨に帰ると聞き、もういたたまれずに土方の留守を見計らって屯所を抜け出した。
だが目的の場所に行く前に、総司は田坂から聞いていた家作の大家、伝五郎の家を訪ねていた。
清一郎が一時の住処として寝起きするように借りた日々は、すでに一月を越えようとしている。
田坂の話によれば、その間大家の伝五郎は何かと清一郎を気遣い、時には話し相手にもなっていてくれたらしい。
慣れぬ地で独り難儀をしていないかと案じながらも、動くに侭ならなかった総司にとって、それはひどく有り難いことだった。
自分が行ってどうなるものではないのだろうが、せめて一言礼を伝えたいと願う気持ちは自由の効かぬ間に日々募っていた。
そしてもうひとつ――――
どうしても伝五郎から聞かなければならない事が、総司にはあった。
伝五郎の家は幾つか家作を持つ大家を生業にしている者のそれとしては、思ったよりもつつましく、磨きこまれた玄関の格子が綺麗に黒光りしていた。
勢いのままやって来たは良いが、いざとなれば門の前で止めた足を踏み出せずに迷っていた時、掛けられた声に振り向けば、後ろにいたのはやはり小川屋左衛門だった。
丁度馴染みの伝五郎の処に世間話をしに来たのだと、小川屋は笑って総司を促した。
そんないきさつがあって玄関の敷居を潜ってから、もうずいぶんと時が経つ。
その間座敷に上がれという伝五郎の気遣いと、土間を動かず恐縮する総司の遠慮の繰り返しだった。
付き合わされるような格好で、小川屋も未だ履き物を脱がず一緒に立っている。
「五年前に連れ合いを亡くしてからうちが独りきりですよって、何の構いもできへんけど・・・そうや、昨日店子はんが持ってきてくれた甘い菓子がありますのや」
思い出した事が余程嬉しいのか、満面の笑い顔だった。
「沖田はんはこれからあの若いお人の処へ?」
放っておけば伝五郎の誘いは諦める処を知らぬようで、辞す機会を逸している総司に、小川屋の助け舟が横から掛かった。
「はい」
「沖田はんはこの人になんぞ聞きたい事があったんと違いますか?せやったら、このまま伝五郎はんのお喋りを仕舞まで聞いてはったら、天道はんも呆れて隠れてしまいますわ」
「小川屋はんもえらいきついわ」
流石に伝五郎も、気の置けない馴染みの皮肉には笑わざるを得ない。
「すみません。・・・ひとつだけ、伺いたい事があったのです」
隠せぬ安堵の色を浮かべた若者の正直さに、小川屋が破顔した。
「ほれ見てみぃ。今まであんたのお喋りに困ってはったんや」
「そりゃ、えらい堪忍でっせ。・・して、何の事ですやろ?」
友に窘められ、伝五郎も漸く其方へと気が働いた様子だった。
「・・・清一郎さんが、藤屋さんの申し出を断ったというのは本当なのでしょうか?」
伝五郎に向けられた瞳に、誤魔化す事を臆させる、真摯な色があった。
それは往診に来てくれた田坂との何気ない会話で知った事実だった。
伝五郎は清一郎の何処が気に入ったのか、店の借財を肩代わりする金の用立てを申し出たのだという。
田坂も小川屋から聞いたもので、事の詳細は定かでは無いがと前置きして話してくれた。
何故、清一郎は伝五郎の申し出を断ったのか。
もしかしたら、店は再建できないと、自暴自棄になってしまったのではないか・・・
そんな思いが、居ても立ってもいられない不安に、総司を突き落とした。
此処に来て、伝五郎自身の口から真実を聞き、もしそうならば清一郎を説得しなければならない。
清一郎に会う前の今なら、まだその手立てを考える事ができる。
総司の思考はそのことだけに捉らわれていた。
「ほんまの事です」
伝五郎の眼差しは変わらず穏やかだったが、応えは事実だけをはっきりとした口調で伝え、言葉の終わりにゆっくりと頷いた。
「もう少しやってみる、そう云わはりましたわ」
しかし間を置かず次を伝えた時には、先程と寸分も違わぬ柔らかな物言いに戻っていた。
「・・・やってみる?清一郎さんが、そう言ったのですか?」
「清一郎はんはなぁ、もしも店がほんまに駄目や思うた時には、働くもんの為、支えてくれるもんの為に、自分の矜持や意地を捨てて、他人に頭を下げることができはる。どんなに罵られようが、じっと辛抱でける。そういう根性が、あの人にはあるような気がしますのや。・・・・せやからまだまだ、大丈夫なんですわ。きっと店を持ち直しはる。うちにはそう思えますのや。ほんま、年寄が要らん節介をやいて、若い人にひとつ教えてもらいましたわ」
自分の申し出に深く頭(こうべ)を下げ、だが凛として断りを告げた清一郎を思い出し、伝五郎の眸が若い一途さを楽しむように細められた。
「大丈夫、安心しなはれ」
今一度頷いて総司を見た顔が、穏やかに、しかし信じろと強く促し笑っていた。
「あ、沖田はん」
もう一度丁寧に礼を言い、急(せ)く気に押されるように後ろを向けた総司に、伝五郎の声が掛けられた。
「うちからも、清一郎はんにあんじょう言うといておくれやす。今日これから十日程嵯峨の奥へ湯治に行きますのや。まだあっちは桜が見られる言うて誘いがありましたのや。せやから顔を合わせることもでけきへんけど、達者でお帰りやすと・・」
笑えば少し下がった目じりに、深い皺が二つづつ刻まれる。
それが見るものを、何処か安堵させる。
「若いうちにあった事は、お天道さんとの付き合いが長ごおなれば、あないなこともあったなぁと、そんなん思い出す日が来るかもしれんのや。そりゃ、ちくりと胸が痛とうなる事もある。けどじきに、昔の自分を苦く笑って許してやる事ができますのや。せやし、歳を取るのもあながち悪いことではおへん。なぁ、小川屋はん」
「あんたと一緒にせんといてや」
とんだ向きに話を振られて、小川屋も流石に苦笑いを浮かべた。
伝五郎は果たして清一郎の心にあるものを知っているのか。
多分本人は語らずとも、何気ない世間話の途中で、この良人は、清一郎の内に未だ朱い血を流し続けている傷口があることを感じ取ったのであろう。
語り掛ける声には、自分の来し方で疾うに終わってしまった時代に、今呻吟している者達を慈しむような柔らかさがある。
「きっと、伝えます」
真っ直ぐに瞳を向けて告げた総司に、伝五郎の人懐こい顔に、隈無い笑みが広がった。
伝五郎は嵯峨の奥ではまだ桜を見ることができるのだと言っていたが、花が散りつつある洛中でも、来る春に浮かれる心をからかうように、時折今日のような寒い花冷えの日がある。
なまじ暖かさになれていた身には、天の気紛れが少しばかり恨めしい。
そんな他愛も無い事を思いながら見上げた空は、時折厚い雲が流れて来、いつのまにかちらほら白いものすら舞い始めていた。
明日播磨に戻る清一郎に、何も出来ない自分の餞(はなむけ)として、せめてその旅立ちが、天道の陽が明るく射すうららかな日である事を総司は願った。
「・・清一郎さん」
遠慮がちに掛けた声に、すぐに戸口の向こうで人の動く気配がし、近づく足音が聞えた。
「あんた、もうこないに歩き回ってええんか?」
建て付けの悪さを焦れるような勢いで開けられた戸の内側で、二十日ぶりに会う清一郎は、一気にその間を省いて諌める目で総司を見た。
「もう何とも無いのです」
「何とも無い決めるんは、あの田坂さんやろ?」
「本当に大丈夫なのです」
殊更ぶっきらぼうに告げる裏返しに、清一郎の自分への気配りを知れば、応える声も自然と逸るものになる。
「そないな寒い処に立ってたら、叉風邪ひくよって」
それが照れ隠しなのか、愛想無く向けた背について内に身を入れると、総司も隙無くきっちりと木の戸を閉めた。
「明日にでも京を発つのだと聞いて・・」
久しぶりの再会で、ともすれば途絶えがちな話の切欠を作るように、総司は上がり框を踏みしめた清一郎に声を掛けた。
「だからと言うて、こないに寒い日に来んでもええやろ」
乱暴な言い回しには、少しも辛辣な響きは籠もらない。
「でも今日来なければ、もう会う事ができない」
必死に追いすがる言葉は、総司の本当だった。
暫らく床についてしまった身には、自由が効く勝手は無い。
明日叉こうして出てくることが出来るのか、その保証は何処にも無い。
会ってどうするのだと問われれば、答えに窮する。
行くなと強い目で責められれば、それに逆らえる自分では無い。
それでも総司は今一度、精一郎に会わずにはいられなかった。
例え土方にどんな咎を受けようとも。
「会わんかて、あんたのことは忘れへん」
「・・え?」
何の衒いも無く、ごく当たり前のようにさらりと空(くう)に流れた言葉は、自分に掛けられたものなのか・・・・
総司は動きかけた足を止め、精一郎の顔を咄嗟に見遣った。
「吃驚する事ないやろ。・・・あんたの事は、きっと死ぬまで覚えてる、そう言うたんや」
それは兄耆三郎に絡む、負の感情から発せられたものではなかった。
総司を見る眼差しには、もっと静かに深いものがある。
「あんた、前にうちに言ったやろ・・・すみまへん、て」
総司は清一郎の意図する処が分からず、黙ったまま頷いた。
その時の事は忘れてはいない。
それはこの家で交わされた会話の中で、河合と、それを偲ぶ精一郎の心情に触れ、我知らず口から零れ落ちた言葉だった。
「あん時、あんたにそう言われて、やっとうちは自分の本当の気持ちを正面から見ることができたんや」
「・・本当の気持ち?」
「せや、ほんまの気持ちや・・・。兄を殺した新撰組は憎い。憎うて憎うてどうしようもなかった・・」
振り絞るように告げる精一郎を見るのは、総司にとっても叉苦衷の時でもあった。
「けどもっと奥に、うちのほんまの気持ちがあったんや」
懊悩と云う血の淵で未だ呻吟している筈の心の裡を語る声は、少しもその欠片を感じさせず、むしろ淡々と、紡がれる言葉は淀みない。
それを総司は身じろぎもせずに聞いている。
「その憎い新撰組のあんたが頭を下げたのを見た時も、うちの胸は辛うなるばかりやった。・・・当たり前や」
それまで表情を変えなかった清一郎が、片頬だけを歪めて笑った。
「ほんまに・・・、ほんまに憎うて、肉も骨も粉々に引き裂いてしまいたい程、憎うてかなわんかったんは、うち自身やったんや・・・死んでも、死んでもよう足らん」
「そんなっ」
「ほんまの事や」
悲鳴のように短く叫び、色を変えた総司に、精一郎は穏やかに笑い掛けた。
「ほんまの事なんや・・。一度気づいてしまえばもう見ない振りはできへん。馬鹿な事して、兄さんを殺してしもうて・・・それでもそれをあんたらのせいにする事で、うちはほんまに憎い自分からすら目を逸らせていたんや。・・・救いようの無い人間や」
自嘲と片付けるにはもう到底敵わない、むしろ見るものに哀しさすら覚えさせる、静かな笑みが精一郎の顔に広がった。
「けど、まだうちは救いようの無いまんまなんや」
「そんなことはないっ」
そう言いきった言葉に嘘は無い。
だが何処まで行っても、決して精一郎の煩悶を救えることは出来ないのだろう己の力の足りなさに、総司は手の平を強く内に握り締めた。
それを見て、精一郎は更に笑い掛ける。
「あんたらを恨む事で卑怯さから目を逸らせていたんやと、愛想尽きるまで自分と言う人間を知ったのに、そんでも尚、うちはまだ新撰組が憎い、・・・そう言うてもか?」
先ほどから瞬きをするのも忘れたように見つめていた、黒曜石の深い色に似た瞳の奥が、微かに揺らめいた。
それが総司の心に起きた動揺を、如実に物語っていた。
「まだ、憎いのや」
笑みを消さずまっすぐに告げる声音は、しかし言葉とは裏腹に酷く寂しいものだった。
「・・堪忍」
搾り出すように告げ、深く頭を下げた精一郎に、総司は慌てて首を振った。
「そんなこと、あたりまえだ」
無理に作った明るい声が、土間から這い上がるような冷気に包まれた家の中に響いた。
経緯はどうあれ、結果的に兄の命数を断ってしまった新撰組は、精一郎にとって生涯に渡って憎まなければならない相手なのだろう。
簡単に癒える、生易しい傷では無い。
だが憎いと言った精一郎も叉、自分たちを思い起こす度に、それ以上に己を苛むに違いない。
憎む者の苦しさと、憎まれるものの苦しさと・・・
いつか終わりが来るのだろうか。
或いはそれは次の世の、更に叉その次の世でも有り得ない事なのかもしれない。
それでもその日を、総司は願わずにはいられない。
「・・・当たり前のことなのです」
下げたままの頭を上げようとしない姿に、柔らかな声が掛かった。
それに促されるようにやっと顔を正面に向け、清一郎は暫し沈黙の中で総司を見ていたが、やがてゆっくりと唇が動いた。
「おおきに」
一言だけ戻った応えに、一瞬首を振りかけた総司が、すぐに今度は縦にして頷いた。
「どっちか分からへん」
笑った声が、家の中に籠もる湿った冷たさを、温(ぬる)む優しさに変えた。
つられるように、総司の面輪にも笑みが広がった。
何時とは分からない。
だが負ったものが傷ならば、塞がる時は来る。
痕は残るだろう、引き攣れが痛む事もあるだろう。
それでもいつか血は止り、傷は塞がる。
その時精一郎は、きっと今と同じような笑い顔を自分に向けてくれるだろう。
そう信じて間違いは無いのだと、見つめる眼差しは告げていた。
「雪や・・」
戸を開けた途端に視界に飛び込んで来た六つの花は、強い風に、一瞬吹雪くように乱れ舞った。
だが悪戯を見守る者達の目に天も恥じたのか、それも直ぐに鎮まり、また寒さだけが際立つどんよりとした空模様になった。
「火鉢、おおきに」
戸の際まで見送ってくれた精一郎が、ふいに告げた言葉の意図が分からず、総司は怪訝に首を傾げた。
「あんたが気にしてくれたんやろ?あの火鉢」
目線だけで奥を指した其処に、確かに田坂と運び込んだ火鉢があった。
それは殺風景な室の中で、丸みを帯びた曲線が、唯一人の温もりと似た暖かさを感じさせる。
「嬉かったんや、ほんまは。・・せやからおおきに」
急いで叉首を振る総司を見る目が、緩やかに細められた。
「私は・・、何もできなかった」
真実そう思う心は、ひとつも役に立たなかった己へのもどかしさ、辛さだけに占められる。
「何もできんことあらへん。・・・いつか新撰組にあんたを訪ねて、ほんまに真っ直ぐな心でおおきにと、うちはそう言わなあかん。せやさかい、あんたを覚えておかなあかん。忘れることなど、できへんのや」
驚きに見開かれた瞳に、ぎこちなく笑う清一郎が映る。
だがそれがすぐに滲んで来るのを、総司は目を瞬いて誤魔化した。
「・・・火鉢、おおきに」
真実伝えなければならない言葉を、今は言えない自分の頑なさを、他に置き換えて告げる清一郎の声が、辛うじて堪えているものを溢れさせようと意地する。
「きっと、礼に行くよって・・・」
更に追う声に、総司は清一郎を映したまま、微かに頷く仕草で応え、あとはどうにもならず、咄嗟に瞳を伏せた。
花が散るその代わりのように、天は行ってしまった季節の名残を又ちらつかせ始めた。
家作を出た直ぐの処で、遂に総司は立ち止まった。
そのまま舞い落ちる白いものを受け止めるように、喉首を反らし、顔を上に向けて瞳を閉じた。
持って行けと、精一郎が半ば強引に渡してくれた傘は、一度も開かれず手にある。
傘を差したら頬に一筋だけ零れ落ちたものを、これは雪だと、自分に言い訳することができない。
精一郎の心情に触れたたったあれだけで、目の奥が熱くなるのを堪えられない姿を見たら、きっと土方は呆れるだろう。
だからその人の元に還る前に、不甲斐ない自分は洗い流してしまいたい。
どれ程そうしていたのか―――
凍てる冷気に触れ、頬に感覚が無くなって来た頃、ふと人の気配を感じ、咄嗟に遣った視線の先に、見紛うことない人影があった。
驚きに瞠られた瞳に映し出される土方が、視界の中でずんずん大きくなる。
呼んだ名を声にできず、唇だけが微かに動いたのと、覆いかぶさるように前に立ちはだかれたのが一緒だった。
呆然と、少しも動けぬ想い人の手に、土方は無言で差していた傘の柄を握らせた。
それを勢いに押された格好で受け取りはしたが、総司はまだ言葉が出ない。
「行くぞ」
そんな様に焦れるように、仏頂面を崩さない土方の低い声が響いた。
「説教は戻ってからだ」
遣る瀬無くついた諦めの息の音が、漸く総司を現に戻した。
見れば土方の体は大方が傘からはみ出している。
慌てて内に全部を入れようと、差し掛けた手を強い力が止めた。
「傘は持っているから・・・」
「だが差したくは無いのだろう?」
言いながら視線を流して示した先に、もう一本畳まれたままの傘がある。
「ならば差すな」
清一郎の元を訪ね、手にしているそれを差さ無い訳を、土方は聞こうとはしない。
呆れた所業を咎めもせず、むしろ包み込むような眼差しに、総司は何と応えて良いのか分からない。
「・・・土方さんが濡れてしまう」
どうにか声にできたのは、裡から切なく満たして来るものとは遠く掛け離れて、ひどく的外れな言葉だった。
「そう思ったら、さっさと動け」
言われて総司は、先ほどから立ち止まったままの自分に気づいた。
「帰るぞ」
二度目に促された時、土方は半ば背を向けていた。
離れて行く後ろ姿に、置いて行かれるのを恐れるようにやっと動いた足が、一歩を踏み出した途端、今度は急(せ)いて駆け出した。
追いついて、うしろから差し掛けた傘に、土方は一度だけちらりと振り返っただけで、後は何も言わずに歩を進める。
共に言葉を交わさず行く路に人影は無く、それを寂しがるのか、時を置いて、淡い氷の欠片が舞っては散る。
清一郎の心に触れ、瞳の奥を熱くした自分を、ほんのさっきまで土方には知られたくないと思っていた。
けれど今は無性にその事を話してみたい。
だがそんな気紛を、土方は聞いてくれるのだろうか。
躊躇いから抜け出せない心は、更に口を重くする。
「雪時雨だな・・・」
心に積もるものを見透かしたように、不意に前から声が掛った。
咄嗟に見上げた瞳に、だが振り向かない背だけが映る。
そのまま土方は沈黙を決め込んでいる。
応えを・・・・
返せといっているのだろうか。
それとも今胸の裡にあるものを、残らず話せと言っているのだろうか。
少しだけ、土方の歩みが遅くなったのは気のせいだろうか・・・
都合の良い解釈と承知している。
聞かされれば、埒も無い事と、やはり土方は呆れてしまうかもしれない。
それでも総司は、伏せがちにしていた瞳を上げた。
還るべき道の果てはまだ遠い。
もしも語る途中で情ない自分を晒してしまっても、身に纏わりつくように降る雪がきっとそれを隠してくれる。
だから今だけは、想いの丈の全てを話して良いのだ。
土方の傍らで、清一郎の来る日を待っていたいのだと―――
「・・・土方さん」
少しだけ傘を傾けて、総司は前を行く背の主を呼んだ。
了
雪時雨 -yukishigure-
2003.8.7
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