陽 秋 -あきひ- (参)



 秋の陽が低く傾いてきた。道に落ちた家々の影は反対側の寺の壁にまで這い、釣瓶落としの夕暮に追われるように人々の足がせわしい。そんな町の移ろいを、狭い路地に身を潜めてぼんやり見ていた時、
「おい」
 達吉の声で総司は我に返った。
「番頭が戻って来たぞ」
 目で促され、慌てて道の向こうにある仙丸を見ると、番頭の雄二が店の暖簾をくぐるところだった。
「どこに行っていたのかな?」
「分かったら苦労は要らん」
 達吉の応えは取りつく島もない。
 昼過ぎまで孝介の家を見張っていた総司と達吉だったが、結局何の手がかりも得られず、その後二人は寺町の質屋仙丸にやって来た。だが仙丸に目的の雄二はいなく、今ようやく戻って来たのだった。
「あんた」
 仙丸に置いていた視線を、達吉は総司へ向けた。
「もう帰えり」
「帰りって…」
 形の良い唇が、ぽかんと開いた。
「ここからはうち一人で十分や」
「でも…」
「あんたには新撰組の仕事があるんやろ?」
「一緒に見張ります。今日は非番なのです」
「非番かて、そうそう一日仕事を離れておられるもんやないやろ。それにうちらの目的は犯人探しやのうて、経箱を取り戻すことや。気長な仕事になるかもしれん。…尤も」
 珍しく達吉がにやりと笑った。
「もう止めますって云うてくれた方が、うちはありがたいけどな」
 意地悪な笑い顔を向けられて、総司はむっと唇を結んだ。だが達吉の云っている事にも一理あった。
 そもそも土方はこの件に関わる事を強固に反対していた。それを無視して手伝い始めてしまった以上怒りを買う事は覚悟の上だが、新撰組の仕事に影響が出ては本末転倒だ。それに確かに先は長いかもしれない。総司は仙丸に視線を遣った。
 番頭の雄二は帳場に座わっているらしく、ここからでは姿が見えない。来た時よりも風はずっと強く吹き、一つ置いた隣の団子屋が外に出していた床几を入れ始めている。町はすっかり日暮れ色に染まりつつあった。
「帰り」
 もう一度達吉が促した。それに今度は総司も抗わなかった。
「では申し訳ありませんが帰ります」
 そう云った時、心の片隅をちくり刺すものがあった。それが土方への後ろめたさなのか、それともひとり達吉を置いて行く事への引け目なのか分からなかった。だがそのどれよりも、カタカタと風に鳴る戸の向こうで一人伏している女性の像が、総司の胸を淋しくしていた。



 寺町の仙丸から西本願寺の屯所までは、急げば四半刻もかからない。だがその間にも暮色はいっそう深くなり、西本願寺の長い土塀が見えて来た時には、西山の稜線に薄い明るみが一筋残っているだけだった。
 屯所の門には早々に松明が焚かれていた。
「沖田さん」
 玄関の上がり框を踏むと、奥から山崎が姿を現した。どうやら帰りを待っていたらしい。
「お帰りになって直ぐで申し訳ないのですが、副長室に行って頂けますか?」
 この男にしては珍しく云いにくそうにしているのは、土方の機嫌が悪いからだろう。
「分かりました」
 その心中を察し、つとめて明るく総司は答えた。
「申し訳ありません」
 山崎の顔に、正直に安堵の色が浮かんだ。
「ですがお疲れではありませんか?一度部屋に戻られてからでも良いのですよ?」
「大丈夫です」
 そうは云ったものの、正直一日中外での探索は思ったよりも疲れた。このまま蒲団に身体を投げ出したい気持はあるが、山崎の言葉に甘えれば土方の機嫌は益々悪くなる。
「すぐ行きます、山崎さんにもすみませんでした」
「いえ、私は何もしていませんので…」
 悪戯げな含み笑いを向けられて、山崎は困ったような笑みを浮かべた。

 障子に映る影は文机に向かっている。何か書き物をしているらしいが動きは鈍い。その影を、総司は部屋の手前に佇み暫く見詰めていたが、やがて大きく息を吸い込むと、覚悟を決めたように足を踏み出した。
「総司です」
「入れ」
 即座に応えが返った。まるで躊躇していた心を見通していたような、苛立った声だった。途端、奮い立たせた筈の勢いが情けなく萎む。総司は小さく吐息し、障子に手を掛けた。

「今日は一日、件の若い者と一緒だったそうだな」
 土方は背中を見せたままで云った。
「俺は関わるなと云った筈だ」
 総司はいらえを返さず、伏し目がちにしてじっと座っている。だがその殊勝な様すら土方には面白くない。癇性な仕草で筆を置くと、ぐるりと体を反転し腕組みを高くした。
「が、お前は性懲りもなく又首を突っ込んだようだな」
「迷惑などではありません。伝五郎さんに頼まれたのです」
「断れ」
 にべもない。
「困っている人に頼まれて、断る事など出来ません」
 しかし総司は果敢な目で土方を見上げた。
「俺が断れと云っている」
「断りません」
 総司自身、思いもかけない強い調子の声が出た。はっとした時はもう遅い。土方の片目がゆっくりと細められた。怒り心頭に達した時に見せる癖だ。
…怒らせてしまった。
 一瞬、焦りが胸を硬くした。しかしその一瞬の動揺が引くと、不思議と心は落ち着いた。目に射竦めるような険しい色を湛え、土方は見据えている。だが総司も目を伏せる事はしなかった。
 土方が口を開いた。
「そうか、分かった」
 低く、地を這うような声だった。
「もういい、戻れ」
 そして一言云い捨てると、また文机に向かい筆を取ってしまった。
 総司は暫くその後姿を見詰めていたが、やがて静かに立ち上がると、振り向かない背に一礼をし障子を開けた。
 外廊下に出ると、辺りはすっかり夜に包まれていた。
 柱の掛け行燈の灯明りが風に揺れ、心許なく足元を照らす。
 総司は空を見上げた。弓張り月に薄い雲がかかっている。その雲がゆっくりと流れ月を仕舞い込んでしまうと、途端に重い疲労感が身体を襲った。土方との諍いが、残っていた力の全てを奪い去ってしまったようだった。

 直ぐには動かない外の気配を、土方は神経を鋭くして感じていたが、やがてそれが遠のいて行くと大きな息をついた。
 激しい怒りも苛立ちも、一時のものだった。廊下に佇み、やがて肩を落として去って行った薄い背が脳裏に浮かぶ。その背は、もしかしたら掛かる声を待っていたのかもしれない。そう思えば、少し云いすぎたかとの思いに胸が塞ぐ。土方は首を振った。すると先ほどよりは大きなため息が漏れた。
 その時ふと障子に影が差した。
「俺だ」
 応えを待たずに入って来たのは、近藤だった。
「そこで総司と会ったが、何かあったのか?」
「何か、とは?」
 後ろ手で障子を閉めながら、外を気にするように問う近藤に、土方は物憂げに答えた。
「いや…、気のせいなら良いのだが、少し沈んだ表情をしていたのでな」
「気のせいだろう」
「そうだろうか」
「そうだ」
 土方は腹の中で舌打ちをした。いつもは鈍い男なのに、こう云う時ばかりは妙に人の機微に敏い。それでもまだ近藤は、風邪でも引いたのか、などと呟きながら首を傾げている。
「近藤さん、あんた用事があったのだろう?」
「おおそうだった」
 せっかちに促すと、ようやく四角い顔を向けた。
「今日反町様に呼ばれたのだ。今回の協力を改めて感謝すると仰られた」
「……」
「大変な仕事だが、総司ならきっと大丈夫だ」
 上機嫌で話し出した近藤を、土方は苦虫を潰したような顔で見ている。
「それで総司だが、暫くこっちの仕事に専念させてやってくれ」
 土方の眉がぴくりと上がった。
「新撰組の仕事はどうする」
「これも新撰組の仕事だろう?」
 当然のような口ぶりで答えが返った。
「今回の件は俺とお前、そして山崎君の三人だけしかまだ知らない。当分は総司にも極秘裏だ。しかし正式な要請を受けたとなれば、新撰組は京都奉行所と協力して、その面目にかけても事件を解決に導かねばならない。…ま、そう云う事でお前も仕事が増えて大変だろうが、宜しく頼む」
 云いたいことを云い終えると、近藤は早々に腰を上げた。上げついでに、
「総司の援護をしてやってくれるだろうな?」
 念押しするのも忘れなかった。
「分かっている」
 憮然を答えた土方を見、近藤は満足げに頷いた。が、ふと顎に手をやると視線を天井に泳がせた。
「…しかし。総司は達吉とやらと上手くやれるだろうか。山崎君の話だと、あまり愛想の良い若者ではないと云う事だが…。しかしまぁ、総司は誰にでも好かれるから大丈夫か」
 少々り案じるように呟いたその杞憂を取り払うように首を振ると、邪魔したなの一言を残して近藤は部屋を出て行った。
 部屋の中に静けさが戻ると、土方は猛然と腹が立ってきた。頭の中に総司と近藤の顔が交互に浮かび、浮かんでは消える。やがて憂いを帯びた面輪は、満足げに朗笑する厳つい顔に押しのけられた。
「馬鹿野郎っ」
 その顔に、土方は毒づいた。
 そもそも誰の所為で総司を止められずにいるのか――。
 近藤の所為である。近藤が余計な約束を引き受けたばかりに、総司が今回の一件に首を突っ込むのを腕ずくでも止められずにいるのだ。
 何が奉行所だ、何が新撰組の面目だ。
 低く唸ると、土方は大の字に寝転がった。その途端、畳に忍び込んでいた夜気がひやりと背中を刺した。
「くそっ」
 慌てて寝返ったそれすら腹立たしかった。



 五条通りを鴨川に沿って南に下り、小さな祠を祭ってある二つ目の路地を西に折れると、もう人影はひとつもなかった。時折、風が落ち葉を舞い上げて吹き抜けて行くが、それが鎮まれば又さむざむとした夜があるだけだった。もう五ツ(午後八時頃)も近い。
 伝五郎の屋敷も静まり返っていたが、裏手に回ると台所から仄かな灯が漏れてる。その灯を見て、達吉は漸く張りつめていた神経を解いた。
 戸を引くや、土間にいたやゑが振り向いた。
「お帰り」
「何か炊いたんか?」
 竈にかけた鍋から、醤油の良い匂いがしている。
「海老芋を炊いたのや」
「海老芋?」
「小川屋はんが届けてくれはったんや。初物やし、長生きするえ」
「迷信やろ」
「迷信かてええやないの」
 やゑは嬉しそうに鍋を見た。
「おたきはんはもう寝たんか?」
「とっくや。あんたご飯まだやろ?」
「ふん」
 達吉は気の無い口調で返事をした。自分の帰りを待っていた姉への、くすぐったい思いが冷えた体を柔らかく包む。その心を隠すように、少し乱暴な手つきで甕の蓋を取ると、口元へ柄杓の水を持って行った。その後ろにやゑが回った。
「なぁ、達吉。沖田はんて、ええお人やろ?」
 達吉は咽た。
「何を急に云うんや」
「けどあんた、一日一緒にいてそう思わんかった?」
「一日やそこらで分かるか」
「そうかなぁ…」
「どんな奴でも構わへん。けど仕事の邪魔はさせへん」
「へぇへぇ」
 やゑは笑った。
「姉ちゃんは、あいつが贔屓やからな」
 達吉は憮然と口元を拭った。
「そうや」
「うちはあの人に、命を拾って貰ろうたからな」
「……」
「どないしたん?」
「何でもあらへん」
 手拭いで口を拭きながら框に上がった達吉のその頭の中に、やゑが短刀で首を突こうとしていた光景が浮かんでいた。それは今思い返しても、達吉の胸を凍えさせる。自分の為に沖田総司を人質にとられた責任を、姉は命を持って償おうとしたのだ。一人の仕事を好む自分が、今回ばかりは総司との行動を承諾したのは、その姉の姿を見たからかもしれないと達吉は思う。
「あんな、達吉」
 その一時の感傷を、柔らかな声が遮った。
「昼間、尚武(しょうぶ)はんが、孝介はんの事で来はってな」
 尚武とは、伝五郎店に住む四十を少し越えた浪人で、博識と穏やかな気質で裏店の者達に先生と呼ばれ好かれている。伝五郎とは碁仲間でもあり、町の噂を仕入れて来ては聞かせる。住まいが近いので孝介夫婦とも面識があり、今回は伝五郎が頼んで孝介の家の周りに気を配って貰っているらしい。その尚武が来たと云う。
「今日孝介はんが、家の近くのお稲荷はんに隠れていはったらしいわ」
「いつの話や、それ」
 達吉の声が鋭くなった。朝から昼にかけてなら、総司と一緒に見張っていた。その隙を突かれた、と云う事だろうか。それとも後なのか…。
 しまった――。
 舌打ちをした達吉の頭の中を、今日一日の記憶が目まぐるしく巡って行く。
「七ツ(朝四時頃)を回った頃らしいわ。見たのは同じ店に住む庭師はんや。鷹峯まで行く仕事があって早うに家を出たそうや。それでお稲荷はんに差し掛かった時に見かけたらしいわ。すぐに声をかけたら、転がるように逃げて行きはったそうや」
「…やっぱりまだ近くにいたんやな」
 達吉は頬に指をやった。
 家の近くを離れられないのなら、それは残して来た女房が気がかりだからだ。自分の危険を顧みるよりも、孝介は女房を案じているのだ。達吉は腕組みをすると目を瞑った。
 そうと分かれば、根気よく孝介の家を見張り続けのが早道だろう。
 だが仙丸の番頭雄二の動きの方が早いと云う事も十分あり得る。
 もし番頭が先に動いたら、こう云う仕事に慣れていない総司には分が悪い。
「あいつが女房の見張りやな…」
 ゆっくり目を開けると、独り言のように呟いた。
「何か云った?」 
 やゑが振り向いた。
「姉ちゃん、その海老芋、明日少し貰って行ってええか?」
「ええけど、どないするの?」
「ちょっとな…」
 それだけ云うと、達吉はやゑの温めて来た汁で遅い飯を食べ始めた。
 ずいぶんと腹が空いていたらしく、達吉は黙々と箸を動かす。膳の上のものが綺麗になくなって行く若い食欲に目を細めながら、やゑは、はて海老芋がどこに行くのかその行方を思っていた。




事件簿   秋陽(四)