陽 秋 -あきひ- (四)
今朝達吉に引き合わせられた尚武(しょうぶ)と云う浪人は、鶴のように首が長く、総司より頭ひとつ背が高い。面長の真中に通る高い鼻が学者然としているが、下がり気味の目が、全体を穏やかな印象に纏めている。
十日前、孝介はこの尚武を訪ねていた。その時孝介は、経箱を見せながらこれは高価なものかと訊いたのだと云う。そしてその日の内に孝介は姿を消し、不審に思った尚武は、経箱の一件を伝五郎に伝えた。達吉が経箱を探すに当り孝介に目星をつけたのは、尚武のこの情報に由来する。
「それでね、私は思うのですよ」
並んで歩きながら、尚武は総司に云った。二人は孝介の家に行く途中だった。
「孝介さんが何をやったのか、私には分からない。だがその事で彼は追われる身となってしまった、そう推測できます」
「はい」
手に持つ風呂敷包みの傾きを気にかけつつ、総司は頷いた。今朝達吉から渡されたその中身は、海老芋を炊いたものだと云う。
「しかし彼は家の近くに潜んでいるらしい。きっと病気のお内儀さんが心配なのでしょう」
「…ええ」
少し沈んだ声で、総司は応えた。その心情は分かる気がしたのだ。
「が、この事が問題なのです。追われる人間が一所でじっとしている、それはとても危険な事なのです」
「狭い範囲で動きを封じられてしまいますね」
「その通り。袋の鼠になってしまいます」
「ご内儀さんはまだ何も知らないのですか?」
「ええ、知りません」
頷いて眉根を寄せた横顔に、孝介の内儀を思う不憫な色が浮かんだ。
「何も知らないと云う事は時に幸せです。が、今のおよしさんには残酷なだけでしょう…」
「尚武さんはお内儀さんを知っているのですか?」
「ええ…」
尚武は少し躊躇うように言葉を止めかけたが、すぐに又続けた。
「私は近所の子供達を集めて手習いを教えているのですが、近所のお姉ちゃん各の子が、孝介さん夫婦の子供を時々連れて来ていたのです。…お初ちゃんと云ってね、良く笑う可愛い女の子でした」
「その子は今?」
「はやり病で、三日も床につかぬ間に亡くなりました。五つでしたよ」
愕然と、総司は尚武を見上げた。
「もう三年前も前になります。夏も終わりに差し掛かった頃でした。お悔みに行って孝介さんの家を出ると、早くなった日脚が裏店の後ろを真っ赤に染めていてね、つくつく法師が何時までも鳴きやまなかった」
つまらない事ばかり覚えています、と笑った声がひどく寂しかった。
「…そうだったのですか」
総司は強張った顔で尚武の横顔を見詰めていたが、やがて静かにその目を逸らせた。遣り切れない哀しみが胸を締め付けていた。
「あっ」
突然、尚武が声を上げた。
「上手い具合におみねさんが出てきましたよ、おみねさんっ」
そのまま大仰に手を振り走り出す。その背中を慌てて総司が追う。
「おみねさんっ、おみねさんっ」
連呼されて、裏店の通りの真中まで出て来た中年女が振り返った。盥を抱えた袖から見える腕は太く、胴も腰もずっしりと厚い。眉毛のしっかりした造作の大きな顔の女だったが、あら先生じゃないか、と笑った声は意外に細く可愛らしい。
「およしさんは、どんな具合ですか?」
尚武が近寄って訊くと、おみねは途端に難しい顔になって首を振った。
「だめだめ。ご飯は食べはらへんし、薬も飲みはらへん。それじゃ死んでしまう云うても、ほんの少し笑うばかりや」
「孝介さんの事は、何か話しましたか?」
眉根を寄せたまま、おみねは首を振った。その時ようやく総司に気づき、訝し気な目で尚武を見上げた。
「あ、紹介が遅れましたが、こちらは沖田さん。伝五郎さんの知り合いです」
総司は小さく頭を下げた。つられておみねも下げたが、続きの説明を求めるように、もう一度尚武に目を向けた。
「実は…」
こほんと、尚武は小さな咳払いをした。そして覗き込むようにおみねを見た。
「ここだけの話ですがね…。孝介さんは、どうやら誰かに命を狙われているらしいのです」
「えっ」
途端に、おみねの顔が引き攣った。
「命を狙われるって…、そんなあんた、せんせいっ」
「しっ」
動転するおみねの口に、尚武は慌てて人差し指を当てた。
「それで、彼は家に戻れないでいるらしいのです」
「ほな、およしはんはどないになるのっ」
襷がけの袖から覗く逞しい腕が、尚武の襟を掴み揺すった。
「もしその悪党がここに来たら、およしはんやうちらはどないになるのっ?」
怖い…と、細い声が訴える。
「大丈夫…」
尚武は蹈鞴を踏みながら総司を振り向いた。
「そのために沖田さんを連れて来たのですから。彼がおよしさんや裏店の皆さんの用心棒をします」
襟を掴んだまま、おみねが総司を見た。そのままじっと上から下まで見定めるように視線を流していたが、やがて尚武を見上げて囁いた。
「…なんや、頼りない気がするんやけど」
「聞くところによると、彼、ああ見えてもやっとうの腕は確かだそうです」
「けどなぁ…」
おみねはちらっと総司を見たが、もうひとつ納得の行かない顔でいる。
「まぁまぁおみねさん、人は見かけによらないと云うでしょ?そんな訳でね…」
おみねの疑惑から逃れるように、尚武は話題を変えた。
「おみねさんにも、孝介さんとおよしさんを助けると思って協力をして欲しいのですよ」
「それは勿論やけど…」
「ありがとう」
尚武は笑って頷くと、
「沖田さん」
蚊帳の外になっていた総司を呼んだ。
「おみねさんが助けて下さるそうです。私や伝五郎さんへの連絡事が出来たら、おみねさんに云ってください」
「ありがとうございます」
総司は心底嬉しそうに笑った。屈託のない笑顔を向けられ、おみねもぎこちなく笑ったが、すぐに尚武の脇腹を肘でつついた。すると尚武も又、曖昧な笑みを浮かべておみねを見下ろした。
家の中は薄暗く、目がその暗さに慣れるまで少し間が要った。だがおみねは足元も不自由せず土間から板敷に上がると、台所と奥の一間を仕切る襖を開けた。
「およしはん、うちえ」
「おみねはん?」
すぐに細い声が返った。およしのものだろう。
「気分はどう?」
「…おおきに」
「あのなおよしはん、孝介はんが帰って来はるまで心細いやろう云うて、伝五郎はんが用心棒を遣わしてくれはったえ」
「…用心棒?」
訝し気に呟いたおよしが、おみねに助けれられて薄闇の向こうで胸を起こしたのが分かった。
「沖田はん」
おみねが、総司を振り返った。
「はい」
慌てて下駄を脱いで上がると、踏まれた板敷が不満げに軋む音を立てた。
おみねの傍らに座った総司を、およしは戸惑いを露わにした目で見詰めていたが、やがて静かにその目を伏せた。
「…御親切は有難いと思います、けどうちの事なら大丈夫どす。主人もじき帰ってきますやろ。せやから伝五郎はんにもあんじょう伝えておくれやす」
思いの外確かな口調でおよしは云った。だがその唇は乾き、ほつれが髪がかかる頬は青白く窪んでいる。年は三十を過ぎたばかりだと云うが、長患いが彼女から若さを奪っていた。
「孝介さんが命を狙われているのを、およしさんは知っていますか?」
およしが驚かないよう、なるべく穏やかに総司は問いかけた。途端、弾かれるようにおよしは顔を上げた。愕然と眸を見開いたその顔が、恐怖の色に塗りこめられて行く。
「うちの人が…?」
戦慄くような呟きに、総司は頷いた。
「そんな…」
「およしはん…」
およしの手を、おみねが痛まし気に握る。
「…お上の手の回るような事を、あの人はしてしもうたんどすか?」
「それはまだ分かりません。けれど孝介さんは何者かに命を狙われています。…家に戻らないのは、貴女に危険が及ぶのを恐れているからです」
「……」
およしはじっと総司を凝視していたが、やがて脱力したように肩を落とした。
「…うちのせいや。うちがこないに弱いから…」
呆然と見開いた眸から、一筋、涙が零れ落ちた。およしは慌てて顔を背けたが、噛みしめた唇からも短い嗚咽が漏れた。すると嗚咽は、忽ちの内に細い啜り泣きに変わり、やがて激しい慟哭となった。その哀しみの迸りを、総司は胸が塞がるような思いで聞いていた。
朝は雲一つない青空だったのに、昼過ぎから強くなった北風が灰色の雲を運んできた。雲は次第に厚みを帯び、一刻もするとどんよりと天蓋を覆った。
日当たりの悪い土間でも、差していた陽が無くなると一層冷たさを増す。おみねが持ってきてくれた汁を火にかけようとした時、奥で小さな咳払いがした。振り返ると、およしが床の上に半身を起こそうとしていた。
「お腹は空いていないですか?海老芋を炊いたものを持ってきたのです。それにおみねさんが青菜の汁を持ってきてくれました」
およしは微かに首を振った。
「…お腹、あまり空かんのどす、堪忍」
「そうですか…」
「けど海老芋なんて高価なものを食べとうないなんて云うたら、罰が当たりますな」
気落ちしたのがそのまま声に出たらしく、今度はおよしが総司を慰めるように微笑した。
「海老芋って高価なのですか?」
「うちらの口には入らんものどす」
「へぇ…、知らなかったな」
「お芋はんは食べまへんか?」
「…あまり好きではありません」
云いにくそうにしている正直な顔に、およしの表情が和んだ。
「でも達吉さんは奮発したんだ」
「達吉はん…?お友達どすか?」
「友達…?ええ、そう、友達です」
勝手に友達にして達吉はさぞ迷惑だとうと思うと、笑いがこみ上げる。だがその他愛もな想像が、総司の心を明るくする。
「やはり食べませんか?私も一緒に食べて見たくなりました」
重箱を持ち上げて見せるとおよしは目を丸くした。が、すぐにくすくすと笑いだした。
「なんや、子供みたいやわ」
笑ったおよしは、生き生きと、先ほどよりずっと若く見えた。
およしはずっと、こんな風に誰かと話しをしたかったのかもしれない。笑いたかったのかもしれない。そして広がり続ける闇から逃げ出したかったのかもしれない。
まだ楽し気な笑みを残している口元を見ながら、総司はそんな事を思った。
重箱を開けると、薄い醤油色をした芋が行儀よく並んでいた。
「美味しそうどすなぁ」
まずおよしが声を上げた。
「里芋とどこが違うんだろう?さっぱり分からない」
「まぁ…」
くすりと笑われて、
「おかしいですか?」
総司は不思議そうな目を向けた。
「いえ、男はんやなぁ…って思うたんどす」
「でも確かに美味しそうですね」
芋は苦手だと云った割には、総司は興味深そうに重箱を覗き込んだ。
「ほんに…」
およしも頷くが、中々箸をつけようとはしない。目で楽しんで、それで十分と云う顔をしている。
「食べて下さい、これはおよしさんにと渡されたものなのですから」
先ほど台所から探して来た小皿と箸をおよしに持たせて、総司は云った。
「うちに…?」
「先ほどの友達に、病気で伏せている人の用心棒に行くと云ったら、差し入れだと渡してくれたのです。精がつくからと」
「優しいお友達どすなぁ…」
「ええ、優しいのです」
感動に見開かれた眸の中で、総司は嬉しそうに頷いた。
ひとつを口に入れ、噛みしめるように無言でいたが、やがてゆっくりそれを飲み込むと、漸くおよしは顔を上げた。 「美味しい」
微笑んだ頬に、微かな赤みが差している。
「何て柔らかな味どすやろ。これを炊いてくれはったのは、きっと心の優しいお方どすやろなぁ」
重箱の中に視線を遣り、感慨深げにそんな事も云った。
「おたきさんは料理が上手なのです」
おたきが作ったものと総司は疑わない。その総司を、およしは微笑んだまま見詰めていたが、ふと目を伏せた。
「けど…。うちばかりがこないにして貰おて、罰が当たる…」
掠れた語尾の、その後は続かなかった。
「孝介さんの事を思っているのですか?」
「……」
いらえを返さないおよしを、総司はじっと見詰めた。
今こうしている間も針のように神経を鋭くし身を隠している孝介を思えば、束の間の安寧に浸ったその一瞬すら、およしにとっては自分を責める重石にしかなり得ないのだろう。
たちまちの内に華やぎの時が去り、重苦しさが狭い家の中を覆った。その暗い影が誘ったのか、項垂れるていたおよしが小さく咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
総司は慌てて後ろに回り背を摩る。およしは頷こうとするのだが、咳は間断なくこみ上げ遂には激しい発作になった。
漸く咳が治まりを見せると、およしは力尽きたように蒲団に倒れ込み目を閉じてしまった。薄い唇が短く息を吐ぎ、胸が荒々しく上下している。
「薬はこれですね?」
枕元に薬の包みらしき袋があった。それを急いで開けた途端、しかし総司は絶句した。中が空だったのだ。振り返ると、色を失くした顔が、枕の上からすまなそうに笑っていた。
「…あの人、薬を買うて来る云うて出て行かはったんどす」
「……」
「薬なんて、どうでもええのに…。うちはあの人の重荷になるばかりで、何もしてあげられへん…」
総司を見上げている眸がうっすらと滲み、その滲んだ眸のまま、およしは云った。
「うち、島原の芸妓だったんどす」
「…え?」
「驚きましたやろ?」
「いえ…」
「堪忍」
慌ててに目を伏せた総司に、およしは労わるような笑みを向けた。
「沖田はんを困らせてしもうて…、悪い女どす」
「そんな事はありません。…ただ、少し吃驚しました」
「そうどすやろなぁ…」
総司を映す目が、柔らかに細められた。
そう云われて見れば、およしの肌は透けるように白く、今はやつれている面立ちも品よく整っている。それはおみねのようなおかみさん連中と比べて随分垢ぬけた感を与える。
「孝介はんは、うちの客どした」
「孝介さんが?」
「へぇ。…孝介はんは、蝋燭問屋の大事な跡取で…。けどうちの所為で孝介はんは家を出されて、その時の縁切り代で、うちを見受けしてくれはったんどす」
語り口は淡々としているのに、およしの声は、もう一滴の涙も絞れないのだと云うように枯れていた。
「けどうちは、あの人を不幸にするだけの女やった」
およしは体を動かし仰向けになると、じっと天井の一点を見詰めた。
その時、不意に外が騒がしくなった。とうとう雨が落ちて来たのだ。
家に入れと子を呼ぶ声、慌てて駆け出す足音、戸をしまう音。一時、外は慌ただしく時を刻んだが、やがて小さな喧騒が行き去ると、裏店は、先ほどよりもずっと深いしじまに包まれた。
雨は音もさせず深々と土に染みこみ、総司は言葉も無くおよしの白い横顔を見詰めている。
ゆっくり首を回すと、およしは総司を見上げた。
「初はお父ちゃん子で、母親のうちが焼餅をやく位に仲のええ父娘どした。…ほんまに幸せどした、ああ漸く孝介はんに恩返しができた、そう思いました。けど…」
血の気の無い唇を噛みしめ、およしは目を瞑った。そしてもう一度瞼を開いた時、その目には涙が盛り上がり、溢れ出たそれは、みるみる枕を濡らした。
「初を…、初を亡くした時、うちは自分の傲慢を思い知らされたんどす。うちみたいなおなごが、孝介はんを幸せにできる筈が無かったんどす。初が死んでしもうたのは、あの人の一生を台無しにしてしもうたうちに、神様が罰を与えたんどす…。うちは、うちは、初の命まで奪ってしもうた」
「そんな事はありません」
「…優しくせんとおくれやす」
思わず膝を詰めた総司に、およしは弱々しく笑った。
「あの人が帰って来なくなった最初の晩、とうとう捨てられんや…、そう思いました。けど心のどこかでほっとするものがあったんどす」
「ほっとする…?」
およしは黙って頷いた。
「やっと孝介はんを自由にしてあげられると思ったんどす。…ほんまは、もっと早くにそうせなあかんかった。けど、うちは怖かった、あの人と離れるのが恐ろしかった…」
白い痩せた手が、総司の手首を掴んだ。
「今かてそうや、あの人が傍におらへんなんて、気が狂いそうや…」
肉の薄い指が、驚くほど強い力で食い込む。
「どうか一緒に祈って下さい」
涙で光る頬で、およしは笑った。
「このまま、孝介はんが、遠くへ遠くへ逃げられますようにと…。うちの業が、あの人の邪魔をせんように、足枷にならんように…」
「貴女はそれで良いのですか?」
「ほかに何を願いますやろ」
玉のような涙を零しながら、何度も何度もおよしは頷く。
密やかに降っていた雨が、軒を叩き始めた。雨音は、激しくなり静まり、遠くなり近くなる。その混乱が総司の心を乱す。
己の業が唯一の人の邪魔をしないように、繋いだ手を、自ら振りほどく事ができるのだろうか…。
本当にそうできるのだろうか…。
総司は狼狽えた。それは今更疑うべきもない決意の筈だった。
だが問えば問うほど、心は千々に乱れる。揺れる。
「少し休んで下さい」
覗いてしまった闇から目を背けるように、総司は瞳を伏せ、およしのかけていた掻い巻きを直した。
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