陽 秋 -あきひ- (五)



 屯所に着いた時、既に五ツ(夜八時ごろ)を回っていた。
 夜番を送り出した後の玄関はしんと静まり返っていたが、灯が漏れる大部屋辺りからは、まだ人の声が聞こえて来る。時折、大きな笑い声が抜け出るそのざわめきを背に、総司は自室へと足を急がせた。が、廊下の曲がり角まで来て、その足が不意に止まった。暗がりから、ぬっと人影が現われたのだ。
「土方さん…」
 答えは無かったが、行く手を阻むように立ち塞がるその姿から、土方の不機嫌は十分に見て取れた。
「どうしたのです?」
 訊いても土方は口を開かない。腕組みを高くし、じっと総司を見下ろしている。総司もそれ以上問うのは諦め、仏頂面を見詰めた。そうして暫く、二人は対峙するように相手を見ていたが、そのうち総司は可笑しくなって来た。我知らず、口辺に笑みが浮かんだらしい。
「何がおかしい」
 すかさず土方が云った。その眉根が寄っている。それが総司には尚の事可笑しい。
「いえ…」
 機嫌を損ねるばかりだと分かっていても、込上げる笑いを禁じ得ない。
――感情の揺れと云うものに無縁と思われがちな土方だが、それは己を抑制するに長けているだけで、一つの才能である。しかし実は土方ほど癇性な人間も珍しいと、総司は思っている。その本来の土方に今接し、総司は嬉しくなったのだ。
「何でもないのです」
 笑いを堪えて云うと、土方は益々嫌な顔をした。
「頼まれ仕事が余程楽しいようだな、結構な事だ」
「ええ、楽しいです」
「ではせいぜい相手に疎まれないよう、精を出せ」
「えっ…?」
 土方を見ていた目が、驚きに見開かれた。
「何だ」
「良いのですか?」
「途中で投げ出す事はできないと云ったのは、お前だ」
「ありがとう、土方さん」
 土方は端正な顔を渋くして吐き捨てたが、総司には堪えない。先程まで青白かった頬を紅潮させ、瞠っていた瞳を細め、喜びを露わにしている。
「思ってもいなかったな…」
「忘れるな、俺は手放しで許している訳では無い」
「分かっています」
 何と釘を刺されようと、答える声は弾む。
「本当に良かった…。ずっと土方さんに反対されたままなのは嫌だったのです」
「手放しではないと、云ったぞ」
「手を放された訳ではないのですよね?」
「……」
 土方は呆れた目を向けた。
「俺もお前のような極楽とんぼでいたいよ」
 これ見よがしのため息に、総司は声を上げて笑った。だが直ぐにその笑みを引くと、
「気まずいままは嫌だったのです…」
 照れ隠しのように微笑んだ。



 翌日――。
 屯所の門を潜ると、西本願寺の土塀が堀川に影を落としていた。霜月の声を聞けば、日暮れは追い立てるように慌ただしくやって来る。
 思ったよりも遅くなってしまった…。
 山崎や伝吉との打ち合わせが長引いた分、達吉を待たせている事に心を急かされながら、総司は足早に西本願寺の前を通り過ぎた。吹き抜ける風に、昼前には無かった、刺すような冷たさが忍んでいる。
 今朝がた、総司は近藤に呼ばれた。
 訝し気な思いを抱いて端座した総司に近藤は、今回の一件を土方から聞いたと伝えた。そしてその口で、何かと世話になっている伝五郎の頼みならば、新撰組としても捨ておけないと付け加え、更には山崎と伝吉にも手伝わせると云いだした。総司は慌てた。そして必死になって固辞したが、近藤も頑として譲らず、結局のところ押し切られた格好で、二人が目立たない行動をする事を条件に承諾したのだ。
 そんな経緯があっての外出だった。
 勝手に助っ人を増やしてしまった事を、達吉は憤るだろうか…。
 否、その前に秘密裏にしなければならない事を、漏らしてしまったのだ。
 杞憂は膨らみ気は重くなるばかりだが、後悔した所で後戻りはできない。それより今はその達吉を待たせている事に心が焦る。総司は足を急がせた。
 堀川通を西本願寺、本圀寺に沿って北上し、高辻通りに至った。その高辻通りを東へ折れ四半刻も歩いただろうか。厳かな読経が聞こえる佛光寺の長い塀も終わり、じき寺町通りと云う所まで来て総司は足を止めた。前方の商家と商家の隙に、羽目板に背を預け達吉が立っていたのだ。達吉は総司を待っていたらしく、見止めると、ついて来いと目で促し身を翻した。

 隣と隣の軒が重なり合ってしまうような、人ひとり通り抜けるのがやっとの狭い路地は、行き止まりかと思うと、果たして突当りからまた横に路地が伸びている。その迷路のような道を、達吉は確かな足取りで行く。やがて達吉は松原通りに出、暫く東に歩いたところにある小さな神社の鳥居を潜ると社の横で漸く足を止めた。
 振り向き、総司が続いて足を止めたのを見、ゆっくり口を開いた。その目が険しい。
「今夜、仙丸の番頭が外に出る」
「…どこに行くのでしょう?」
「それが分かったら…」
「苦労はしませんよね」
 総司は慌てて付け加えた。
「けれど何故、出掛ける事が分かったのです?」
「男が訪ねて来た」
「男?」
「番頭を外に呼び出して、暫く二人で話をしておった。声が小そおて中身までは分からへんかった。けど別れしな、男が番頭に、では今夜と云うたのだけは聞こえた。…孝介はんを見つけたのかもしれへん」
「それだけで孝介さんと結びつけるのはどうかな?仕事の用事だったのかもしれないし…」
 総司は首を傾げた。
「訪ねて来た男は堅気やない」
 達吉の脳裏には、時折、探るように辺りに目を配らせていた、男の鋭い視線がこびり付いている。その目に捕えられそうになった、あのひやりとした瞬間も、まだ生々しく背中を冷たくする。
「…そうですか」
 総司は呟いた。
 敵は目の色を変えて孝介を探していたのだ。あれから日にちも経っている。達吉の推測は当たっているのかもしれない。そう思いつつ、総司の裡には、すっきりと納得できない何かが引っかかる。ではその正体が何かと問われても、総司自身はっきりとは分からない。
「それより亭主の居場所を、およしはんは何か云ってはいなかったか?」
「いいえ…」
「そうか…。うちは案外知ってると思うてたんやけどな」
 まだその疑いを捨てきれないように、達吉は呟いた。
「どうして分かるのです?」
「好きおうているからやろ?」
 当たり前のような口調で、いらえは返って来た。
「女房が心配で近くを離れられない男が、その女房に何の手がかりも伝えず行方を眩ますと思うか?」
「……」
「およしはんも、あんたには何か話すかと思うたけど、案外手強いな…」
 口角に意志の強さを滲ませた若い横顔が、思案気に眉根を寄せた。
「それらしきことを、ほんまに口にしなかったか?」
「いいえ…」
「どないな事を話したんや?まさか一言も喋らずにいたんやないやろ?」
 問われて、総司は戸惑った。戸惑いながら、およしと過ごした時を懸命に思い返した。
「およしさんは、孝介さんが遠くへ逃げられるように願って欲しいと云いました。心底孝介さんの事を思っていた」
「遠くへ、か…。まるで相手が近くにいるような云い方やな。尤も近かくにおればおったで、一日ごと未練は募る。孝介はんが近くにおってもおらんようになっても、およしはんには辛いだけやな」
 奥の林には沼地があるのだろうか、不意に水鳥の羽ばたく音がした。風に揺らいだ梢の隙間から、水平に西日が射し込む。その眩しさに目を細めながら総司は、黙考する達吉を見詰めた。
「…達吉さんは優しいな」
 呟きを聞き留めた達吉が、顎に当てていた指をゆっくり離すと、総司に視線を向けた。
「何の事や?」
 不愉快そうな声に、総司は微笑んだ。
「だって、こんなにもおよしさんの事を思っている…」
 そう云って笑った面輪が、黄昏時の白い光の中でひどく心許ないと達吉は思った。その事が、達吉をうろたえさせる。
「あんたの見当違いや」
 思いがけない動揺を隠した口調が、荒っぽくなった。
「そうでしょうか?私は優しいと思うのだけれど」
「検討違いや、云うてるやろ」
「でも私を助けてくれた」
 仙丸の店先で、包丁を振りかざした孝介に石を投げ、事なきを得たその事を総司は云った。
「あれは、あんたを助けたのと違う。自分の仕事を邪魔されたくなかっただけや」
「嘘だ」
「嘘やない、あんたのっ…」
 達吉は言葉を呑み込んだ。唇辺に笑みを浮かべた総司の目が、悪戯そうな色を湛え見ていたのだ。
「……」
 その目に抗うように、忌々し気に顔を歪めると、
「やっぱりそうだ」
 総司は嬉しそうに続けた。
「あの時、孝介さんの手に石が当たらなくても、私は子供を守る事ができました。それは達吉さんも分かっていた筈です。でも頭とは裏腹に手が先に動き、気づいた時は足元の小石を投げつけていた。…違いますか?」
 達吉は無言で眉根を寄せた。
「誰であっても、達吉さんは同じことをして相手を護ったと思う」
「うちは、そないなお人よしと違う」
「分かっています」
「いや、分かっとらん。大体あんたは…」
 勢い込んだ文句を、しかし又も達吉は途中でとめた。東の方角から刻(とき)を知らせる鐘の音が聞こえて来たのだ。重くかさなるその音の方へ視線を向け、達吉は舌打ちをした。
「…こないな話をしている暇はあらへんな。急がんと、孝介がやられる」
「はい」
 答えた総司の胸にも、一時忘れていた焦燥が突き上げる。
「私は仙丸で番頭の動きを見張ります」
「いや、あんたもおよしはんの所や」
「…え?」
「番頭にはもう見張りがついてる」
 伝吉だ―。
 咄嗟に総司は判じた。
「あんたのとこのもんやろ?」
 総司はうろたえ、頭を下げた。
「すみません、勝手に助けを求めてしまいました」
 どんな罵り声が降って来るかと、堅く目を瞑った。しかし間をおかずに聞こえたのは、小さなため息だった。戸惑いながら見上げると、落ちる間際の赤い陽を背にしている達吉と目が合った。
「盗られたものを取り返すだけなら、うちだけで十分や。けど、およしはんに、孝介を返す云う余分な仕事をするなら手が足りん」
「え…?」
「およしはんかて置いてけぼりは嫌なんやろ、ほんまは」
 総司は目を瞠った。だが達吉はさっさと踵を返してしまった。
「達吉さんっ」
 大股で鳥居を潜る背を、総司は慌てて追った。



「知っているのですね、孝介さんの居所を?」
「……」
 いくら訊いてもおよしは答えない。何もかも拒むかのように目を瞑り、堅く唇を閉ざしている。
 時刻は七つ半(午後五時頃)。陽の名残は疾うに無く、夜の色が部屋の隅々に潜んでいる。
 およしの枕元で、総司は根気強く孝介の居場所を問い、その総司の声を、達吉は土間の柱に凭れて聞いていている。
「孝介さんを狙っている相手が、今夜動き出すかもしれないのです。孝介さんの命が危ないのです」
 ぴくりと、窪んだ瞼が動いた。その微かな兆しを見逃さず、総司は訴える。
「こうしている間にも、危険に晒されているのかもしれないのです」
 すると、漸くおよしが瞼を開いた。だがその目は真っ直ぐに暗い天井に向けられた。唇は閉ざされたままだ。その時、土間にいた達吉が、ゆらりと柱から背を離した。
「およしはん、あんた勘違いしてはるのと違うか?」
 驚いて振り向いた総司には目をくれず、達吉は上がり框の前まで来て続けた。
「孝介はんを縛ってると、あんたは思うてはる。けど、孝介はんはそないに思うてはるやろか?それにあんたと別れたら、孝介はんは幸せになると、あんた、ほんまに思うてはるのか?」
 それまで人形のように表情を押し殺して来たおよしが、初めて顔を動かして達吉を見詰めた。
「もしほんまにそう思うてはるなら、それはあんたの傲慢や」
「…傲慢…?」
 擦れた声が、およしの乾いた唇から漏れた。
「そうや、傲慢や。あんたは自分の考えだけで決めつけてるのや。一度でも、重荷の自分を捨ててくれと、孝介はんに訊いた事はあったか?」
「…そないな事」
 およしは声を詰まらせた。
「なら、あんたは孝介はんに確かめもせずに、自分の想いを勝手に押し付けてええにするのか?もしかしたら、孝介はんかて、あんたを縛ってると苦しんではるのかもしれへんえ」
 はっと、およしが眸を見開いた。
「あんたらは互いを想う気持が強すぎて、まだ大事な事を伝えてないのと違うか?」
 伝えなくてええのか?と、優しくはない、不器用な声が問うた。
 達吉を凝視しているおよしの目に泪が滲み、やがて溢れ出たそれは頬を伝った。薄い灯が映し出すその一筋の細く光る跡に、総司は、およしの一縷の希が重なり合ったように思えた。
「教えてください、孝介さんのいるところを」
 およしは総司を見、その目を達吉に遣り、そしてもう一度総司に戻した。
「…たぶん」
 やがて聞こえて来たのは、聞き取るにも難儀する小さな声だった。まだ揺れる思いの中にあるおよしの口元を、総司はじっと見守る。その目に見守られながら、再びおよしは口を開いた。
「成興寺(じょうこうじ)はんを西の森にあるお稲荷はんに、あの人はいるかもしれまへん」
「成興寺?」
 およしは頷いた。成興寺なら総司も知っている。この家作から西へ半里足らずのところにある。新撰組の屯所からも遠くない。
「子供と、よく遊んだ森どす」
「ここから近いな…」
 達吉が呟いた。
「あの人、いなくなる日の夜、青い顔をして帰って来たんどす。その時はこないになるなんて思いもよらなかったけれど、自分に何かがあったら森の中のお稲荷はんの祠の中を探すように云うたんどす…」
「森の中に稲荷神社があるのですか?」
「…小さなお稲荷はんがあるんどす。子供とようお参りをしてはりました」
「隠したのは、文箱かな?」
 総司が首を傾げた。
「間違い無いやろ」
 断言するように、達吉が云った。
 と、その時―。ことりと、風が悪戯したように戸が鳴った。咄嗟に総司は大刀を掴み、達吉は火を吹き消し戸口の横に張りついた。しかし外に気配は動かず、その代わりに、伝吉ですと、しゃがれた声が正体を明かした。

 達吉が戸を引くと、滑り込むように人影が忍び込んだ。
「伝吉さん」
「仙丸の番頭が店を出やした」
 伝吉は蹲るように片膝を着くと、土間に下りた総司を見上げた。
「思ったより早かったな」
 達吉が顔に険しい色を走らせた。
「番頭の後は誰かがつけているのですね?」
「…へぇ」
 伝吉は少しばかり口ごもった。
「達吉さん?」
「いえ…、番頭の方は大丈夫です。それであっしはこちらの手伝いに来やした」
 そう云って顔を上げた時の伝吉は、いつもの鋭い気を纏っていたが、いつもらしからぬ伝吉に、訝しさを捨てきれず総司は首を捻った。が、今は問質す間も惜しい。孝介を助け出すのが先だった。
「伝吉さん、孝介さんは成興寺です」
 総司は早口に云い、達吉に続いて外に出た。
 町は夜に包まれつつあり、家々から漏れる灯が、ぽつりぽつりと木戸まで続いている。その仄かな道しるべを頼りに、総司は足を踏み出した。




事件簿   秋陽(六)