陽 秋 -あきひ- (六)



 家と家の隙間から、思いもかけず奥へ続いている狭い路地を、達吉は迷いの無い足取りで行く。その背に総司も伝吉も続く。やがて三人は竹田街道沿いにある長福寺の境内を抜け、壊れた垣根の間から、隣接する成興寺の敷地内に足を踏み入れた。
 成興寺の境内はひっそりと静まり返り、本堂の影が夜の色を一層深くしている。
 達吉は立ち止まり、空を仰いだ。先ほどまで月に架かっていた雲がゆっくりと流れ行き、幸いな事に月明りが地上を照らし始めた。
「この本堂の奥が、およしはんの云うてはった雑木林や」
 達吉は後ろの二人に目で促した。
 なだらかに傾斜している本堂の屋根の向こうに、小山のような闇が蹲っている。
「思ったよりも深い雑木林ですね…」
「うちらの他は誰もおらへんようやな」
「はい…。まだ敵も気づいていないのでしょうか?」
 達吉に答えながら、実のところ、総司の胸には小さな疑念がある。それは、敵とする者達の気配を、孝介の家の周辺にも此処へ来る間にも一度も感じなかったと云う事だ。その事がどうにも釈然としない。そしてこれは、この一件に関わるようになって、割合早い時期から総司が抱いた違和感でもあった。
「達吉さん」
「何や?」
「私達は、敵…、つまり孝介さんを襲おうとしている相手なのですが、その敵の姿を、まだ一度も目にしてはいませんよね?」
「仙丸の番頭がそうやろ?」
「確かに孝介さんは、番頭を怯えていました。それで私達はあの番頭を敵だと思ったのですが、では他の仲間はどこにいるのでしょう?およしさんの所に居ても、仙丸を見張っていても、私は誰かの気配や殺気を感じたことが無かったのです」
「……」
 達吉は黙った。思い当たる節は、達吉の中にもあるのだ。ただその事を敢えて後回しにしているのは、先ずは経箱を取り返す事に専念したかったからだ。今は他の疑念に捉われている時が惜しい。だが目の前の若者はそうではない。一つ疑問が生じれば、それを後回しには出来ない。短い付き合いで、その不器用さは良く分かった。
 瞬きもしない瞳にじっと見詰められながら、総司を納得させる言葉を、達吉は探しあぐねた。その時。
「…差し出がましいことでやすが」
 石のように押し黙っていた伝吉が、しゃがれた声を響かせた。総司と達吉が伝吉を見ると、伝吉は慌てて目を伏せた。だが言葉が途切れる事は無かった。
「今はそう云う事を考えるのは、後回しでもいいんじゃねぇですか?早くしねぇと孝介さんとやらが危ねぇ」
 普段、自分の意見など口にしない男の長い言葉に、総司は驚いた。が、すぐに慌てて云った。
「そうです、伝吉さんの云う通りでした。今はそんな事を考えている時じゃない。余計な事を云いだして、すみませんでした」
「いえ、あっしこそ余計な事を…」
 目を合わせず、決まり悪そうに伝吉は云った。
「せやな。立ち止まっている暇などあらへん」
 達吉は頷くと、止めてしまった刻を取り返すように、雑木林の中へ足を踏み入れた。

 本堂の裏手に続く雑木林の中には、小さな沼がある。木々の先を突き抜けて覗く天蓋がその沼に月を落とし、月は戯れるように水面に揺れている。
 枯れた草を踏み分けて水辺に近寄った達吉が、不意に立ち止まると振り返った。
「あれや」
 そう云って指し示した対岸に、小さな祠が見える。
「およしさんの云っていたお稲荷さんですね」
 祠を見詰める目を細めながら、総司も呟いた。月明かりの中でも、長い事参詣人が途絶えているのが伺える、うら寂れた祠だった。
「手分けして探した方が良さそうやな」
「ええ」
 総司が達吉を見て頷き、やがて三人は三様にその場を散った。達吉は沼の北側に沿って祠へ、伝吉は達吉とは逆回りでやはり祠へ、そして総司はもう一度来た道を引き返した。
 先へ先へと急く心で、何か見落としたものが無かったか…。
 五感を鋭く研ぎ澄ませ、そそり立つ木の陰、生い茂る叢の隙を、総司は丹念に探って行く。すると、五間も行かぬうちに、左手奥の木陰から、時折、ちらちらと白いものが見えた。来るときは気づかなかったが、どうやらそれは隣接する寺の土壁のようだった。その壁に月明かりが反射し、青白く見えたのだ。一瞬詰めた息を、総司は吐いた。が、その時だった。壁に黒いものが走った。
 人影だ―。
 判じるが早いか、総司は、土に浮き出た木の根を蹴った。



「孝介さんですね?」
 頭を抱え土に蹲っている男の横に屈みこむと、総司は訊いた。だが男は顔を上げようとしない。恐怖が男を雁字搦めにしている。
「およしはんにな、頼まれたのや」
 達吉の声に、細かく震えていた背がぴくりと動いた。
「あんたの事を、案じてはる」
「…およし」
 漸く掠れた声が漏れ、おずおずと男が顔を上げた。
「孝介さんですね?」
 もう一度総司が確かめると、男は顔を伏せたまま小さく頷いた。
「うちらはあんたの命を狙っているもんとは違う。あんたの持っている経箱を探しているだけや」
 孝介の横に片膝をついた達吉が、項垂れている顔を覗き込んだ。孝介は目だけを動かし達吉を見たが、その目にはまだ警戒と怯えが錯綜している。
「経箱と中の文が戻れば、あんたが追われている理由も、うちらにはどうでもええことや」
「……」
 そう説いても、孝介の顔は強張ったままだ。
「貴方がここにいることを、およしさんが教えてくれました」
 その怯えを慰撫するように努めて穏やかな声で、総司が後を継いだ。
「およしが…?」
 閉ざされていた唇が、わななくように呟いた。
「およしさんは、自分を置いて貴方に遠くへ逃げて欲しい、そう云っています」
「そない阿保な…」
 すると突然、猜疑に満ちていた孝介の目が、大きく見開かれた。
「何でおよしがそないなことを…」
「貴方の足手まといになると、そう思っているのです」
「そないなこと、うちが思うわけないやろっ…」
「自分が貴方を縛っていると、およしさんは苦しんでいるのです」
「そんな…」
 悲鳴のような声が孝介から漏れた。
「およしは阿保やっ…、何でうちを信じられんのや」
 そして幾度も首を振ると、握りこぶしで土を叩いた。
「…孝介さん」
 総司は孝介の肩に触れた。
「人は、ひとりの人を想うあまり、心で思っている事と真逆を云わなければならない時があります」
「……」
「およしさんは、貴方の邪魔をしたくない、だから遠くへ逃げてほしいと願っています。でもそれは本心でいて、本心ではありません。自分を置いて逃げて欲しいと願う心と背中合わせには、それ以上に、貴方に帰って来て欲しいと願う心があります。その板挟みで苦しみながらも、でもおよしさんは、自分から貴方を解放する道を選んだのです」
 呆然と、孝介は総司を見詰めていたが、その唇が震えた。
「うちが…。うちがおよしを置きざりにするやなんて、できる訳が無い。考えたこともあらへん。うちには、およししかおらへんのに…。何で…、何でおよしにはそれが分からんのや」
 孝介は絞り出すように云うと、溢れ出る涙を隠して下を向いた。その悔し気な横顔に、総司は云った。
「…孝介さんに心配をかけてばかりいると、およしさんには、そんな負い目があるんじゃないのかな?」
「負い目…?」
 孝介が顔を上げ、総司を見た。
「ええ」
 凝視する双眸に、総司は頷いた。
「自分が情けなくなって、ならばいっそ邪魔になる前に身を引こうと、およしさんは、そんな風に思ってしまったのではないのかな?…こんなこと、孝介さんにはつまらない矜持に映るかもしれないけれど、でもその矜持が、今およしさんを支える全てなんです、きっと」
「邪魔やなんて…」
 頬を伝わる涙を手の甲で乱暴に拭って、孝介は云った。
「負い目があるのはうちの方や…。およしを幸せにすると約束したのに、少しもその約束を果たせへん。それどころか、お初を救ってやれず、およしまで病気にしてしもうた。…みんなうちのせいや」
 胸に余る悔恨を吐き出すように訴えた横顔が、自分への憤りで震えた。
「うぬぼれや」
 するとその時、それまで黙っていた達吉の鋭い声がした。
「うぬぼれているんや、およしはんもあんたも」
「うぬぼれ…?」
 孝介が視線を上げ、達吉を見た。
「そうや、うぬぼれや。あんたもおよしはんも、相手が辛い思いをしてるのは自分の所為やと信じ込んでる。けどあんたは、およしはんに、ふしあわせかと訊いた事があるんか?およしはんは、あんたにふしあわせかと訊いたか?相手のしあわせ、ふしあわせを自分の物指で決めつけるんは、うぬぼれと違うんか?」
「……」
「あんたらは、互いを想い過ぎて、相手にとって自分がどんなに大切かを忘れているんや。…ほんまは、あんたらほど幸せな夫婦はおらへんのにな」
「……」
 孝介は言葉も無く達吉を見上げていたが、やがてその窪んだ頬に、一筋涙が滑り落ちた。それを隠すように慌てて俯いたが、食いしばった唇の隙から、堪えきれず低い嗚咽が漏れた。総司は一度離していた手を、又孝介の肩に置いた。
 大きく波打つ孝介の背を摩ってやりながら、総司は思う。今孝介は、自分を縛って来た後悔や負い目を、涙と共に流し出しているのだと。達吉の言葉が、孝介を解放したのだ。そしてそれは又、総司自身の心をも揺らしていた。だがその心の揺れから目を逸らすように、総司は孝介の肩から静かに手を離した。
「知っている事を、話してくれますね?」
 語りかけると、尖った肩に沈んでいた頭が小さく頷いた。



「ほんまにこれだけどす、文など入っていまへんどした」 
 青ざめて、孝介は訴えた。
 経箱はやはり祠の中に隠されており、今総司達は、その祠の前で経箱を囲んでいる。
 箱の中には、上半分が千切られた一寸四方の紙切れが一枚。そこには図形か記号らしきものが描かれているが、何分半分だけなので、正確な事は判じがたい。
「孝介はん、あんたがこれを手に入れた時の事、詳しく話してくれへんか?」
 じっと経箱を見下ろしていた達吉が、孝介に視線を向けた。
「…へぇ」
 少し間をおいた後、孝介は決心したように顔を上げ口を開いた。
「あの夜は親方に前借を頼もうと遅くまで仕事場に残っていたんどす。けど借りたかった金の半分程しか借りられまへんどした。滞った薬代の支払いは明日に迫ってるし、どないしたらええのか思案にくれながら、うちは朱雀村を抜けかけました。するとその時、道の脇にあるお不動はんの境内から、人の声が聞こえて来ましたのや」
「どんな話し声やった?」
 達吉に問われて、孝介は記憶の細部を思い起こすように天を睨んだが、すぐにその目を達吉に戻した。
「低い、ひそひそ声どした。一人の声はしわがれていて、周りを用心してるようどした。うちは何とのう通りにくい気がして、近くの木の陰に隠れたくらいどす。そしたらその内、経箱の金を持ってきたとか云うてるのが聞こえて来たんどす」
「経箱の金?」
 達吉が眉根を寄せた。
「へぇ、そうどす」
 話している内に落ち着いてきたのか、孝介の口調はしっかりとし、達吉を見詰めて頷いた声には力があった。
「金を用意して来たと云わはったのは、仙丸の番頭はんどす」
「仙丸の?」
 これには総司も驚き瞳を瞠った。
「間違いあらしまへん。確かに仙丸の番頭はんどした」
 今度はその総司を見、孝介は云った。
「丁度月明かりが射して、顔がはっきり見えたんどす。もう一人、経箱を持っている相手…、これがしわがれ声の方どしたが、こっちは人相も悪うて、見るからに荒んだ気配がしました。けど番頭はんにはそう云うのがありまへんどした。せやから、この人は脅されて金を持ってきたんやないか?そないに考えて、番頭はんの顔が、うちには印象に残ったんどす」
 孝介の観察は中々しっかりしていて、案外に芯の強い人間だと思わせる。
「ところがその見当が外れた。番頭も悪党で、一緒になってあんたを襲ったんやな?」
 先回りした達吉に、だが意外にも孝介は首を振った。
「それは違います」
「違う?」
 達吉は訝し気に声をひそめた。
「だがあんたは仙丸の前で暴れた。あれは番頭に襲われたからやないのか?」
「違います。うちはあの時、番頭はんを見て、幽霊が出た恐ろしさで腰が抜けてしもうたんどす」
「ゆうれい?」
 今度は総司が驚いた。
「へぇ…」
 孝介は気弱そうに目を瞬いた。
「うちは番頭はんが、てっきり殺されたと思ってたんどす。せやから幽霊やと驚いてしもうて…。それに経箱をねこばばした事もあって、逃げな殺されると思うた他は、後の事はよう覚えておらんのです。ほんま、堪忍しておくれやす」
 消え入るような声で、孝介は詫びた。
「番頭は誰かに襲われたのか?」
 その孝介に、達吉は問うた。
「へぇ、番頭はんともう一人の男が経箱の事で話している時、顔を隠した男たちが現れて二人に襲い掛かったんどす。暫く斬り合う音が聞こえましたが、その内恐ろしい呻き声が聞こえました。うちは木の陰に隠れてじっと息を殺してましたけど、ほんま、生きた気がしまへんどした」
 孝介は身を震わせた。
「誰だろう…?その襲った者達は」
「分かったら苦労はいらへん」
 小首を傾げた総司に、達吉の声が苛立った。
「で、あんたはどうやって経箱を手に入れたんや?」
 達吉は慌ただしく孝介に目を向けた。
「落ちていたんどす」
「落ちていた?」
「斬り合いが終わっても、男達は暫く経箱を探しているようどした。けどその内、遠くから人の声が聞こえてきたんどす。そしたらひとりが舌打ちして、それが合図のように、皆一斉にいなくなりました。それから、うちは恐る恐る道に出ました。そしたら、すぐ脇に人が血を流して倒れてました。思わずひっと声を上げて後ずさった時、足に何かが触れてひっくり返ったんどす。それが経箱どした」
「で、そのまま持ち帰ったと云う訳やな…」
 新たな展開に直面し、達吉の顔が難し気に曇った。
「…へぇ。経箱と分かった時、金になる、咄嗟にそう思いました。あんだけ怖がっていたのに、自分でも呆れる位に頭が冴えました」
 今度は先ほどよりも深く、孝介はうなだれた。
「話のとおりなら、殺されたのは番頭に金を用意させた男の方やな」
 立ち上がり土を払いながら、達吉が呟いた。
「そうですね」
 相槌を打ったものの、総司の声も沈んだ。経箱は見つかっても、文が無ければ仕方が無いのだ。
「また振り出しですね」
 垣間見えた光がすっと遠のいたような感に、小さなため息が漏れたその時。
「沖田さん」
 控えめな声がした。見ると、伝吉がどうにも居心地の悪そうな顔をして此方を見ている。
「どうしたのです?伝吉さん」
 思わず総司は訊いた。
「仙丸の番頭でやすが、そろそろ本圀寺辺りに差し掛かる筈なんですが…」
「何故そんな事が分かるのですか?」
「……」
 不思議そうに見つめられ、伝吉は目を逸らせた。明らかに困っている様子だ。どう考えても今日の伝吉はおかしい。
「伝吉さんは、何か知っているのですか?」
 総司は重ねて問うた。
「いえ…」
 すると、伝吉は曖昧に口ごもった。
「さっきの鐘やろ」
 その時、助け舟を出すように達吉が云った。
「鐘?ああ、さっきの…」
 総司は頷いた。つい先ほど、刻(とき)を知らせる東寺の鐘の音が聞こえたのだ。五ツ(午後八時ごろ)を知らせる鐘だった。
「そう云えば、伝吉さんは、番頭の後をつけている人がいると云いましたよね?」
「…へぇ」
「誰ですか?それは」
「腕のたつ人がおひとり…、としかあっしも…」
 伝吉の答えはやはり煮え切らない。
「ひとり…」
 しかし総司は微かな驚きと、そして新たな緊張に身を硬くした。
 孝介の話から、番頭は経箱を盗んだ盗賊の仲間ではないらしいと分かった。だとしたら、顔を見られた可能性の高い番頭こそ、経箱を奪い返そうとしている盗賊に狙わているのだ。もし番頭と一緒にいて襲撃に巻き込まれたら、いくら腕が立っても一人では危険だった。
「本圀寺へ行った方がよさそうやな、この人はもうあんたのとこの人に任せてええやろ」
 達吉も同じことを考えたようで、孝介と伝吉を交互に見て云った。
「伝吉さん、孝介さんの事を頼みます。本圀寺へ援護に行きます」
「へぇ」
 立ち上がった総司に、伝吉はほっとした表情を浮かべた。が、それを慌てて隠すように、孝介の肩に手を置いた。
「さぁ、帰りやしょう。おかみさんが待っていやすぜ」
 脇をとって立ち上がらせると、背丈のある孝介が伝吉を見下ろす格好になった。だが孝介は、伝吉の胸よりずっと低く、何度も何度も頭を下げた。
 その二人の姿を目に収め、総司は振り返った。達吉は、もう雑木林の中に消えようとしている。ずんずん小さくなるその背を追いかけて、総司も又、来た道を走り出した。







事件簿   秋陽(七)