陽 秋 -あきひ- (七)
雑木林を抜けると、東寺の五重の塔が迫るように現われた。その影懐に入り込んで、総司達はひた走る。やがて西洞院川に架かる太鼓橋を渡ると、幾らも行かない内に又瀬音が聞こえて来た。堀川だ。本圀寺はこの川を北上したところにある。
橋の袂に差し掛かった時、待っていたかのように川面に黒い影が兆した。総司は足を止めた。闇に目を凝らすと、それは橋の下から出て来た一艘の舟だった。舟はすぐに全容を現したが、しかしその舟尾に立つ者の姿を見た刹那、総司は瞳を瞠った。山崎だったのだ。
「山崎さんっ」
欄干に身を乗り出した総司に、
「乗って下さい」
山崎は告げると、流暢に艪を操り舟を岸に着けた。
川面を照らす月明かりを弾いて、舟は進む。
しかし舟の速さにも焦れるように、総司の胸の危惧は大きくなる。
「間に合えば良いけれど…」
その焦燥が、思わず言葉になって漏れた。それを山崎が聞き留めたらしい。
「大丈夫でしょう」
間を置かず応えが返った。
「…山崎さん?」
「いえ…、そうだと良いのですが…」
山崎は言葉を濁し、総司から目を逸らせた。総司は訝し気に櫓をこぐ横顔を見詰めていたが、その視線から逃れるように、山崎は川の先に目を向けている。
「お西はんや」
その時、達吉が云った。総司が慌てて前を向くと、西本願寺の白い土壁が闇に浮かんでいた。導くように続くこの土壁の先に、本圀寺がある。新たな緊張が舟を包んだ。
「ここからは岸に上がった方が良いでしょう」
やがて西本願寺を過ぎ本圀寺に差し掛かった所で、山崎が云った。
「それがええやろ」
その提案に、達吉も頷いた。
舟の軋みすら拾うように音を殺して岸に上がり、堀川通に出たその時だった。鋼の重なり合う音が、澄んだ夜気に響いた。寸座、弾かれるように総司の足が止まった。音は、ほんの一瞬、しじまを突き破るように聞こえた。総司は鋭く目を細めた。五感を針のように研ぎ澄ませ、音のした方角を探る。そしてその目が、寺の東側に続く、楊梅通りの闇の先を凝視した。
「向こうですっ」
そう告げた時、痩せた身が、誰よりも早く翻った。
楊梅通りの入り口は、すでに異様な殺気に包まれていた。断末魔のような呻き声、重なり合う怒号。通りを進むにつれ、それらは段々に近くになり、そして両替商の古い看板を掲げる商家の角を曲がった刹那――。
総司は息を呑み、立ち竦んだ。
男が一人、道を塞ぐように仁王立ちになり大刀を振るっている。そう思う間もなく、対峙していた相手が仕掛けて来た。立ち合った瞬間、男の刀が折れ刃先が弾き飛ばされた。すると男は近くにあった天水桶を素早く掴み相手に投げつけた。それが相手の脛に当った。怯んだ隙を逃さず、今度は別の桶を掴み殴り掛かる。
まるで喧嘩だ…。
呆然と漏れた呟きが聞こえた訳でも無いだろうに、男が振り向いた。途端、これでもかと云う程、男は顔を歪めた。そして吠えた。
「総司っ」
「……」
「ぼんやり眺めていないで加勢しろっ」
呆気にとられている総司に怒鳴り散らすと、土方は背を向け次の敵に対峙した。
「土方さんっ」
その後姿に向かい、総司は叫んだ。土方は振り向かない。じりじりと、間合いを詰めて来た敵に神経が注がれているのだ。が、そんな事は構わず、総司はずんずん近づいた。
「何故こんなところにいるのです」
背中を合わせるようにしてかけた一声が、詰るような強い口調になった。目の前の現実に戻った途端、危険な護衛をしていた土方に対し無性に腹が立ってきたのだ。
「みんなお前の後始末だろうっ」
だがすぐに、その怒りを倍にしたような苛立った声が返って来た。
「お前が考えも無くあちこちに首を突っ込むから、俺が苦労をさせられるんだっ」
「そんな云い方は無いと思う」
「そんな云い方もこんな云い方もあるかっ」
「これでも急いで来たのですっ」
思わず総司は横に回り、土方を見上げた。すると睨みを効かせた双眸が見下ろした。そして次の瞬間、怒声が響き渡った。
「文句を云うなっ」
一喝されて、白い面輪が不満げに押し黙った。そこを隙と見たか、土方に狙いを定めていた相手が、総司に向かって刀を振りかざして来た。その一撃を身を捻って交わすと、総司は、まだ体勢の整わない相手の胸元に強烈な突きを入れた。一尺五寸はあるかと思われる大男は、民家の板戸に激しく背をぶつけ地面にずり落ちた。男が立ち上がれないのを目に収め、総司は周囲を見渡した。すると二間ほど離れて、達吉が浪人風の男の手首を絡め取り、鳩尾に肘鉄を当てるところだった。男は声も出さず膝をつき前のめりに地面に伏した。その達吉の周囲にも、幾人かが苦し気な呻き声を上げ地面に蠢いている。戦いの勝敗は既についていた。
息も絶え絶えな風情の者達は、ざっと十名。その周りには、刀や鞘、天水桶の桶が散乱している。そして土方に視線を戻せば、憮然と顔を歪め、美しく月明かりを浴びている。
「…これ、みんな土方さんがやったのですか?」
呆れて、総司は土方を見た。
「手間をかけさせやがって…」
土方は荒々しく口元を拭った。
「莫迦どもめがっ」
そして吐き捨てた。だがそれを聞いた途端、込上げた笑いに総司は目を逸らせた。
「何だ」
「…いえ」
凄みのある一瞥をくれられ、慌てて真顔を作ったその時、ふと後ろに人の気配が兆した。咄嗟に振り向いた総司だったが、ご無事でしたかと近寄って来た男の顔を見て、あっと、瞳を見開いた。仙丸の番頭雄二だったのだ。袖や着物の裾に返り血を浴び、髷すら乱してはいるものの、確かに雄二に間違いは無い。
「…あなたは」
目の前に立った雄二を呆然と見る総司に、
「京都町奉行所の、向井直方殿だ」
土方が教えた。
「向井です。このたびは貴方にもご迷惑をおかけしました」
向井は実直そうに頭を下げた。が、そう云われても総司にはさっぱり分からない。
「向井殿は故合って仙丸の番頭に成りすまし、事件を追っていたのだ」
土方が言葉を足したが、総司は狐につままれたようなように向井を見詰めている。
「私から説明しましょう」
向井が困ったような笑みを浮かべた。
「実は今年九月に、ある寺で盗難事件が発生し、宝物が幾つか盗まれました。しかし同じような事件は二、三年前から頻繁に起こっていたのです。そして私達は、その裏に何か絡繰りがあるのではないかと疑い始めました」
「絡繰り…?」
「確かな証を得た訳では無いのですが…」
その内容を明かすべきか否か、一瞬、向井は逡巡し語尾を濁した。しかしすぐに決意したように総司に視線を戻した。
「盗難にあった宝物が、他国へ売り捌かれているのではと睨んだのです」
「それでは抜け荷…」
「ええそうです。しかも寺ぐるみの」
総司を見詰め、向井は慎重に頷いた。
「事件を追い始めるて行くと、その疑念が確信に変わるのに刻はかかりませんでした。しかし証拠が無い。私達は必死で探索を続けました。だが何の手がかりも得ないまま、九月が過ぎてしまいました。このまま月番が東町奉行所に変われば事件を担当できない。そうなれば解決の糸口すら遠のいてしまう。追い詰められ焦った私は、十月に入るや単独で探索を開始したのです」
「仙丸の番頭に姿を変えたのですね?」
「ええ、腹の一つ二つ切るのは覚悟の上の行動でした」
幾分体裁が悪そうに、向井は笑った。
「どこで経箱の事を知ったのですか?」
「賭場です。情報収集の為に、私は頻繁に賭場に出入りしました。骨董好きの質屋の番頭と云う触れ込みで、良い出物があったら買うと常日頃口にしていました。すると、喜助と云う遊び人が、良い経箱があるが買わないかと持ちかけて来たのです。姿形を細かく聞くと、それはつい最近、随心院ゆかりの寺から盗まれた物だと分かりました。私は喜助の誘いに乗り、金を持って云われた場所に行きました」
「その受け取りの場を、孝介さんに見られたのですか?」
「そのようです。しかし私は彼がそこに居た事を知りませんでした」
「孝介さんも同じ事を云っていました」
「そうですか…。お恥ずかしい事ですが、あの時は私も逃げるのに必死でした」
向井は苦笑いを浮かべた。すると丁寧に経緯を語っていた真面目な官吏から、人柄の良い若者の顔が覗いた。
「喜助に金を渡している時、今そこにのびている連中に襲われました。喜助は裏切りを働いて、盗んだ経箱を金に換えようとしていたのです」
「その時に、向井殿は賊に顔を見られてしまった」
傍らから土方が口を挟んだ。
「そこで危険に晒された向井殿の護衛の依頼を、西町奉行所の御奉行醒井殿から、近藤さんが直々に請け負ったのだ」
「御奉行様が…?」
「そうだ」
「けれどどうして私達の行動が護衛になったのです?」
「お前たちが賊と誤解して向井殿を見張り始めたと知った醒井殿は、それを逆手に取ったのだ。お前たちが見張っていれば、例え襲われても向井殿は一人ではないからな」
「貴方達を欺き、そして巻き込んだ事、心から申し訳なく思います」
向井がこうべを低くした。
「許して欲しいなどと都合の良いことは云いません」
「……」
向井から視線を逸らせると、総司は達吉を振り返った。達吉は無言で向井を凝視している。そしてその沈黙に責められるように、総司は瞳を伏せた。
総司の胸にも、何も知らされず踊らされていた事への燻りはある。だが向井の実直な人柄に触れた今、彼自身への憤りは無い。しかし達吉はどうなのか…。達吉の仕事に自分が首を突っ込んだ事で、結果的に彼を新撰組の仕事にまで巻き込んでしまった。その事が総司の心を重くする。
達吉がすっと総司の前に出た。向井は構える事無く、真摯な目で達吉と向き合った。その向井に、達吉が問うた。
「あんたに聞きたい事がある」
「何でしょう?」
「経箱を開けた時、文がなかったか?」
「あの時、私は経箱に触れていないのです。喜助を殺し、この連中が奪い返したとばかり思っていました」
「……」
達吉はじっと向井の目を見ていた。だがその双眸が逸らされる事が無いと分かると、やがて懐から何かを取り出した。
「うちが開けた時、経箱の中にはこれが入っていた」
差し出されたのは、件の紙切れだった。
「これは…」
向井が絶句した。
「あいつらが躍起になって探していたものや」
達吉の向けた視線の先に、山崎と伝吉によって次々に縄をかけられている男たちがいた。
「抜け荷の時に使う割符やろ。これを辿れば抜け荷を摘発できる」
「しかしこれは貴方の…」
「これはうちの探しているもんと違う。自分の探し物なら、それがあんたの手に有っても奪い返す。あんたかて、そうやろ?」
「……」
向井は睨むように割符を見ていたが、やがてその目を達吉に移し、そして深々と頭を下げた。
「事件を解決に導くと、約束します」
強く短い言葉の中に込められていたのは、独り事件を追い続けて来た向井の、揺るがぬ信念と決意だった。
「達吉さんっ」
足の速い達吉に漸く追いつくと、総司は息を弾ませ前に回り込んだ。そして頭を下げた。
「すみませんでした」
「何の真似や」
「達吉さんを新撰組の仕事に巻き込んでしまいました。…騙したようになってしまいました」
「おあいこや。うちかて騙された。結果あんたを騙したようなもんや」
意外な言葉に総司が目を上げると、渋い顔が見下ろしていた。
「百通目の恋文」
「あっ…」
総司は言葉を呑んだ。
おそらく絡繰りはこうだ。
割符の入れておいた経箱を見失い、抜け荷を企んだ者達も寺も焦った。約束の日は刻々と近づく。しかし船に積み込む際に必要な割符は無い。万策尽きた挙句、達吉に仕事の依頼が来たとは想像できる。
「誰が考えたか知らんが、とんだ茶番や」
「犯人達は達吉さんを利用しようとしたのですね」
「らしいな」
合点が行ったように総司は頷いているが、達吉の胸には別の怒りが湧いてきていた。
達吉は思う。
そう云う絡繰りを案外承知していて、伝五郎はこの一件を引き受けたのではないのかと。そしてそれが総司と仕事をさせる為なのだとしたら…。
「とんだ狸や…」
忌々し気に、達吉は舌打ちをした。
「え…?」
それが総司に聞こえたらしい。
「何でもあらへん」
不思議そうに見詰める瞳に愛想無く答えると、達吉はさばさばと背を向けた。
「もう用は無いやろ」
「達吉さん」
もう一度総司は呼んだ。
「又会えますか?」
「縁があれば会えるやろ」
「ありますよね?」
「さぁな」
どうにも気の無い口調で、いらえは返った。
振り返らない達吉の袂が、辻風に翻る。流されてきた雲が月にかかり、月は朧な光りで家々の屋根を青白く照らし出す。その覚束ない月明かりの中で総司は、達吉の姿が、遠く小さくなり、やがて闇の向こうに消えてしまうまで、じっと佇んで見詰めていた。
それから半月ほど経て、事件は急展開を見せ、やがて一件落着した。
凡そ予想した通り、寺々は、宝物を唐に売り捌いていた。予め盗まれたと届け出ていれば、奉行所の目も誤魔化しやすいと踏んだらしい。どこの公家大名家も台所事情が苦しい昨今、市中の寺社仏閣も嘗てのような庇護を受けられず、その財政は逼迫していた。そこで今回のような事件が起こった。
与力向井直方と西町奉行所の面々は、綿密な探索を重ね、手に入れた割符から抜け荷船を割り出すと一挙に事件を解決へと導いた。
密貿易は大坂湾のはるか沖に停泊する唐船の中で行われ、関わっていた寺社仏閣は京都に限らず、大和、近江、播磨の広範囲に及んでおり、近年稀に見る大規模な抜け荷の摘発であった。
京都西町奉行醒井栄之助の別邸は、衣笠山の麓、龍安寺の北東にある。その庭の一角、利休好みの簡素な茶室で、近藤は醒井に茶を振舞われている。
「まずは一服…」
茶碗を差し出した醒井の手は、優美な所作に似ず武骨だ。声も太く顔も厳つい。だが不思議な事に、その武骨さが、案外この茶室のしじまに溶け込んでいる。
「さぞ似合わぬ趣味をとお思いでしょう」
客の胸中を察するように、醒井は笑った。
「いえ、そのような事は…」
図星を指され、近藤は慌てて茶を飲み干した。茶は僅かな渋みを舌に残し、近藤の腹の中ほどに心地良く収まった。
「結構なお手前でした」
「それは良かった。茶の湯は妻の実家に伝わっているものなのです。私は婿でしてな、まぁ、門前の小僧ですよ」
器を愛でている近藤に、にこにこと、醒井は云った。笑うと厚い唇の端が上がり、目と眉が垂れて、丁度七福神の布袋の顔に似た。思わず無礼を忘れて近藤がその顔に見入っていると、醒井は、今度は脇に置いてあった包みを近藤の前に置いた。
「実はこれを差し上げたいと思いまして、今日はこんな所にまでお呼びだていたしました」
太い指が器用に解いた包みの中には桐箱に入った筆が一本。近藤が訝し気に醒井を見ると、
「熊野筆です」
醒井は更に目尻を下げた。
「熊野筆?」
「ええ、芸州安芸で作られている筆です。歴史は浅いのですが、今では手本にして来た大和筆に勝るとも劣らない出来栄えです。この筆を、近藤殿に使って頂きたかったのです」
「はぁ…」
「実は私の里は、この筆の作られる熊野なのです」
「御奉行殿が?」
「醒井家は遠縁にあたり、私は生まれた時から醒井の婿になる事を決められ、九つで京へ来ました。…此方で過ごした歳月は、故郷で過ごしたそれを遥かに越えてしまいました。もうとおに亡い父や母の顔、故郷の情景すら朧げです。しかし最近、その故郷がとても懐かしいのですよ」
歳ですな、と醒井は自嘲したが、故郷を想う醒井の気持ちが近藤には痛い程良く分かる。
「これは向井を助けて頂いた私の気持ちなのです。部下を危険に晒す事になる、しかし何としても事件は解決に導かねばならない。部下の命かお役目か…、そんな私の心情を近藤殿は察して下さり、今回の願いを快く引き受けて下さった。このたびの件、改めて礼を云います」
頭を低くした醒井に、近藤が慌てた。
「顔をお上げ下さい。そう云う事でしたら、この熊野筆、有難く頂きます」
近藤は筆を手に取ると、掌に置いた。
「そうですか…、熊野筆と云うのですな」
そして鋒(ほう)の部分を指で触ったり、軸を握り持ち具合を確かめていたが、やがてその目を醒井に向けて云った。
「良い筆です」
細めた近藤の目の中で、福々しい布袋顔が嬉しげに相好を崩した。
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