さくら (弐)
田坂の診療所を訪れる時、総司は比較的患者の引いた昼過ぎを選ぶようにしている。今日もその例に違(たが)わ無い。渡りきればじき診療所と云う五条橋の途中で、八ツ(午後二時頃)の鐘の音を聞いた。
診療所の門は黒く、太い。そこだけを見れば重厚だが、不思議と厳めしさは感じられ無い。それは何時でも患者が飛び込んで来られるよう、常に広く開け放たれている事と、南西に向いた日当たりの良さが、明るい雰囲気を醸し出している所為かもしれない。
屋敷は田坂の養父が、昵懇だった京焼きの窯元から借りていたものを、晩年になって買い取ったのだと云う。今は使っていない上り窯もそのままにある敷地は、奥へ向かって広い。その屋敷をぐるりと囲む板塀から、外へ枝を伸ばしている木がある。樹肌に錦のような光沢をもつそれは、桜だった。
淡い色の花弁が門柱の黒を隠す程、花の盛りを迎えた頃には、此処を通りかかる者の足を止めさせてしまう木を、総司は見上げた。が、その寸座、脳裏の一点に、川面に差す煌めきのような光が鋭く弾けた。それはまだ過去にして仕舞うには、あまりに鮮明すぎる出来事だった。――あの日、島崎音人との唐突な出会いは、こうして桜を見上げたその直後に訪れたのだ。そしてそれは思いもかけ無い方向へと走り出し、今こうして胸の裡を重くしている。
寸の間忘れかけた現実に呼び戻され、総司は小さく息をついた。
門を潜った途端、キヨの声が聞こえて来た。
「島崎はんっ」
声はもう一度し、その声の慌てようが、尋常で無い何かが起こっている事を教える。走り出し、玄関の敷居を跨いだ総司は瞳を瞠った。
三和土(たたき)に立っていたのは、キヨと音人。そして八郎が、奥の上がり框に腰かけ、二人の遣り取りを面白そうに見ている。三人の視線が、同時に総司に向けられた。
「遅かったじゃねぇか」
八郎が声を掛けた。その調子が、場に相応しく無く、のんびりと間延びしている。
「ああ、沖田はん、ええところに来てくれはりましたわ」
キヨはキヨで、こちらは総司を見るや、安堵の色を浮かべた。
「どうしたのです?」
キヨと島崎を等分に見、そしてもう一度キヨに視線を戻し急(せ)いて問う声が、事情の分からぬもどかしさに焦れる。
「島崎はんが、出ていかはる云いますのや」
「出て行く…?」
キヨは大きく頷いた。
「本当なのですか?島崎さん」
「風邪の患者は一段落ついた。もう手伝いも要らん」
「うちとこに来はるのは、風邪の患者はんだけやおへん。それに若せんせいがいない時に出ていかれはったら、何で止めんかった云うて、うちが怒られます」
総司と云う味方を得て安堵した途端、気持ちが大きくなったらしい。先程の慌てた様子とはうって変り、キヨは不満げに口を尖らせた。
「キヨさんには世話になった」
そのキヨには、流石に音人も殊勝だった。几帳面に下げた頭の低さに、素直な感謝が見えた。
「島崎さん、出て行くと云っても、他にどこかに行く当てが見つかったのですか?」
音人の身なりは、十日前、此処に来た時と少しも変わらない。似つかない二本が重たげに腰にあるだけだ。
「無い。だが俺の働きは、ここで寝食を被るにはもう足らん」
「そないな事ありまへんっ、島崎はんに手伝ってもろうて、若せんせいはどないに助かってはるか…、若せんせいは島崎はんの事を信頼されてはります」
思い止ませようとするキヨの必死さには、音人の袖を掴まんばかりの勢いがある。
「キヨさんがそう云うのなら、きっと本当なのだと思います。行く先が決まっていなければ、もう少しお世話になっていたらどうですか?」
音人を連れて来たその日、要らぬ迷惑を掛けてしまったと、重い心の裡を土方に語った逆を今説く自分に呆れながら、総司も援護の言葉を続けた。
「居候をするつもりは無い」
「診療所を手伝っているではありませんか」
音人の事が気掛かりで、あれから二度ほど此処へ顔を出したが、音人は手際よく田坂の助手を勤めていた。その様子は素人の総司にすら、音人の過去に、医術に携わるような何かがあるのではと推測させるに十分だった。だから音人の云っている事が、総司には理解出来難い。その不審を質すように、総司は音人を見上げた。
一重の瞼は切れが長く、やや横に張った口元が、冷たさと頑固さを印象づける。その口から出る言葉は、いつも短く愛想の欠片も無い。 「あんなものは、手伝っているうちには入らん」
果たして、今もその例外では無く、まるで吐き捨てるような物言いだった。
「でも田坂さんは、助かっていたと思います」
相手につられたか、総司の調子も強くなった。珍しい事だった。寸座、上がり框に腰かけている八郎の口辺に、小さな笑いが浮かんだ。
「当人が違うと云っているのだから、違う」
「それは田坂さんの決める事です。島崎さんが決める事ではない」
「患者が少なくなれば、助けの手は要らん。俺は施しの飯を受けるつもりは無い」
「では食べなければいい」
「沖田はんっ…」
怒りを露わにする、見たことの無い総司にキヨが慌てた。そのキヨをも振り向かず、総司は睨みつけるようにして音人を見上げている。深い色の瞳には、真摯な憤りがあった。
玄関に沈んだ気まずいしじまの中を、不釣り合いに明るい陽が伸び行く。それが低く鋭さを増して、もう日暮れが違いのだと教える。
「二人とも」
不意に声が差した。その悠長な響きが、二人の間に張った気を殺いだ。
「続きは、田坂さんが帰って来てからにしたらどうだえ」
声に釣られ、漸く音人から視線を外すと、それまで気配すら感じさせなかった八郎が笑っていた。その笑い顔が、総司に我を取り戻させた。
「…すみません、あの…田坂さんは?」
羞恥に苛まれ、キヨに詫びる声が上ずる。
「じき帰りますわ。小川屋はんへ行っただけですよって」
そんな心の綾を見透かせたか、応えた声が慰撫するように柔らかい。だが優しい眼差しを向けられた総司は居たたまれない。ちらりと音人を見ると、これはもう何事も無かったかのような涼しい顔をしている。そうなれば、自分ばかりが稚拙さを見せつけてしまったようで、頬は益々火照りを強くする。それを見咎められるのが嫌で、総司は瞳を伏せた。
昼は、火鉢が鬱陶しいような陽気だったが、西に陽が傾くと風に冷たさが忍び始めた。季節の狭間は、一日の内で寒暖の差が激しい。
あれから田坂はすぐに帰って来た。そして経緯を聞くと、音人を別室に連れて行った。その時、近くにいられると纏まる話も纏まらなくなると苦笑した顔が、鎮まりかけていた総司の羞恥を煽った。その事を思い起こすと、未だ頬に血が上る。
「お前、良い喧嘩友達が出来たな」
一瞬、先程へ心を走らせていた総司を、八郎は機敏に察したらしい。からかうような視線が、綺麗な線を描く眉根を寄せさせた。
「喧嘩友達だなんて」
「違うのか?」
「島崎さんの事はまだ何も分からないし…。それにこちらは友人と思っても、島崎さんはそう思われる事を嫌うと思う」
「はて?嫌う、とは?」
「たとえば…」
「例えば?」
言葉に窮し考え込んでしまった面輪を見る目が、どんないらえを返すのかを愉しむように細められた。
「あの人は、他人と関わる事を避けているような気がする」
「避けている?」
「うまく云えないけれど…。接する事で、その人との仲が深くなる事を避けているようなところがある」
「他人が鬱陶しいか」
「そう云うのとは、少し違う」
それまで、何処となく自信の無い調子だった声が、この時だけは、はっきりと強かった。
「では何だ?」
「他人と深い関係を作るのを、恐れているように思えるのです」
「怖い?大の大人がか?」
笑った声に、頷いた瞳の色は真剣だった。
「決して、悪い人では無いと思うのです。悪い人だったら、あんなに熱心に田坂さんやキヨさんの手伝いはしてくれない。…だから余計に分からないのです」
「怖いねぇ…」
繰り返した声に笑いを含ませたものの、総司の云っている事は、確かに八郎にも思い当たる節があった。
玄関での総司との遣り取りを聞きながら、八郎は、島崎音人と云う若者を観察していた。そのほんの僅かの間でも、音人が他人との関わりを嫌う性質(たち)だとは推し量れた。だからと云って、情が薄いと云う訳でも無いらしい。それはキヨへの態度を見ていて分かった。総司の見識を借りるのなら、存外、此処を出て行こうとしたのも、逗留が長引く事で、田坂やキヨに情が移るのを恐れたとも考えられる。そしてそう云う音人の気質は、生まれながらのものでは無く、何らかの事情で捻じ曲げられたものだと、八郎は察した。だからあんな風に無愛想を装い、他人と距離を置き鎧を纏う。もしこの推測が当たっているのなら、総司のように無防備で懐に飛び込んでくる者は、音人にとって最も苦手とする人間だろう。しかも損得の無い分、始末が悪い。総司と接する事で、音人は、己の感情に変化がもたらされる事を嫌っているのかもしれない。が、もう遅い。気の毒にと、裡で苦笑した八郎だったが、もうひとつ、更なる気掛かりがあった。それは音人が、何らかの理由で追われているのではと云う推測だった。追われいるのなら、一処へ止まる事は危険だ。だから出て行こうとしたと考える方が、気質云々を説くより一番現実的だろう。
――他人と密になる事を嫌う気質と、何事からか逃れなければならない事情。前者だけならともかく、後者も重なるとなると…。
面倒だな、と思った時だった。
「八郎さんは、何故此処に?」
寸の間、思考はあらぬ方向へと飛んでいたらしい。我にかえれば、不思議そうな瞳が見詰めていた。
「昨日大坂から来て、今日は非番だ。花も近い麗らかな日に、凡そ不釣り合いな仏頂面を思いだしたら、今日は一の付く日だと気がついた」
「それで此処に来たのですか?」
憮然と返ったいらえに、可笑しそうな笑いが零れた。
「門を潜った寸座、キヨさんの声が聞こえて来た。玄関へ行くと、キヨさんがあの人を止めるに必死だった」
「何故キヨさんを助けてあげなかったのです」
「事情が分からん」
「だから一人座って見ていたのですか?」
声が、他人を決め込んでいた無責任を咎めていた。
「ちゃんと最後は締めてやったろう?尤も俺は、まだあの人と正式な顔合わせをしていない」
「でも八郎さんは、もう島崎さんと云う人を十分に観察し終えた筈です」
先程とは一転、八郎を見る瞳に、悪戯げな色が浮かんだ。
「大方は…、と云ったところか」
「さっきも云ったように、悪い人では無いと思うのです」
「さてどんなものやら」
「八郎さんだってそう思うからこそ、田坂さんが帰るまで待てと引き留めてくれたのでしょう?」
「俺は単にこの家の主の采配を待てと云っただけだ。それが道理だろう?」
云い分は尤だが、素直で無い物言いに、八郎を見る深い色の瞳が細められた。
「何だ?」
「何でも無い」
訝しげな視線に応えた口辺が、嬉しそうに綻んだ。
人影が差した時には、日は更に傾きを深くし、稜線に茜色の筋を引いていた。だが浅春の華やぎを残す夕べは、まだ十分に明るい。
「待たせたな」
滑りの良い障子が開いた時、総司は腰を浮かせた。音人の姿をその後ろに探そうとしたのだ。が、田坂は一人だった。その理由を問うように向けた瞳に、
「診察が遅れてしまったな」
田坂は医師としての貌を優先させた。
「田坂さん」
「話は診察の後だ」
診察に使っている別室へと目で総司を促し、自身も踵を返そうとした寸座、向け掛けた背が思い出したように振り向いた。
「伊庭さん、挨拶がまだだったな」
苦笑がてらの言葉は、己が八郎へのものなのか、それとも音人と八郎を顔合わせしていない事なのか、そのどちらともとれた。
「今夜は、キヨさんの飯を馳走して貰っていいかえ?」
八郎はその両方と受け取ったらしく、見上げた顔が笑っていた。
「喜ぶ」
短いいらえにも、笑いがあった。どうやら田坂はその時に音人を八郎と目通しさせるらしい。だが二人の遣り取りを聞きながら、総司は己の胸に、小さな棘が刺さったような蟠りを感じていた。それは自分ばかりが置いてきぼりを食らう寂しさだった。そんな自分に愛想を尽かして立ち上がると、総司は、緩慢な足取りで田坂の背を追い始めた。
芯に点った熱は、みるみる膚に朱を透かせ、一瞬の内に、肉体も精神も昂ぶらせる。土方に触れられた途端、身体はいつも心を置いて先走り、翻弄され、情欲に溺れ、やがて高みに上りつめ、四肢を強張らせ終(つい)を迎える。そして束の間、夢と現をたゆたう。だが今宵は違った。総司は始め戸惑いながらも、徐々に激しく、自分から土方を求めた。押し殺しても、押し殺しても、甘い喘ぎは唇から洩れ、上に重なる背に立てた指は、強く皮膚に食い込み、己の深淵へと土方を誘(いざ)なった。内に土方を包み、喉を仰け反らせ、掠れた声で、繰り返し、繰り返し、土方の名を呼んだ。低い声が、耳元で何かを囁く。その声を、総司は、遠くなる意識の狭間で聞いていた。
蒲団に伏した顔を、総司は上げられない。気だるい心地良さが醒めた後に襲って来たのは、あられも無く土方を欲した激しい羞恥心だった。どんな顔をして土方を見れば良いのか分からない。
が、そんな心裡など知らぬように、或いは知っていて意地をしているのか、土方は項に背に、唇を滑らせる。その湿った感触が、膚を顫(ふる)わせる。首筋と右の肩の付け根に軽く歯を立てられた時、あばらを透かせた身体が、びくりと強張った。
「何を、考えていた?」
低い声が囁いた瞬間、耳朶を噛まれた。
「…なにも」
止まない愛撫に、再び兆そうとする己の身体の無節操を知られまいと、応えた声は呟きにも似て小さい。
が、土方はそんな辛抱の衣を、無慈悲に剥いでしまう。
強い力で上向きにされた寸座、総司は視線を逸らした。しかし土方は許さず、頬に手を添えると、正面から己を見上げさせた。
「田坂さんの処で、何かあったか?、いや、例の居候の件か?」
見下ろしている眼差しが、笑っていた。
「誰でもいいさ。こんな風にお前を煽ってくれるのなら、俺は大歓迎だ」
「土方さんっ…」
行燈の遠い灯りの中ですら、白い膚に朱の色が上るのが分かった。
「怒るな」
これ以上からかえば、この想い人は、己の掌からするりと逃げてしまうだろう。その手前で、土方は滑らせていた指を止め、今度は両の手で下に組み伏している身を包みこんだ。
その土方の温もりに包まれながら、総司は瞳を閉じた。
土方が云った事は当たっていた。
田坂に問うても、音人には今までどおり診療所で働いて貰い、代わりに寝食の場を与えると云う答えしか戻らなかった。ひとつだけ、暇が増えた代わりに、庭の雑草の手入れをしてもらうと、田坂は付け加えた。 その声、表情に、隠し事は無かった。
帰り際、外廊下を通る時、もう宵が色を濃くしている庭に屈み込んでいる、音人の後ろ姿を見つけた。声をかけようかどうか迷ったが、結局そうしなかったのは、玄関先での気まずさが緒を引いていたが故だった。
おさな子が、喧嘩をしたと不満と寂しさを訴えるにも似て、音人に振り回されて波立った感情の起伏が、土方への甘えになったのかもしれない。そんな事が脳裏を掠めた寸座、右胸の一点に痺れるような感覚が走った。
「あっ」
無防備な声が、唇から滑った。余所へ遣った一瞬の思考すら、土方は見逃さなかったらしい。
「いつも…」
乱暴な愛撫に似合わぬ優しい声が、驚くほど近くで囁いた。 溺れる事を覚悟して、否、そうありたいと欲し瞳を閉じる間際、庭に屈みこむ飄々とした背が浮かびあがった。だがそれは、一閃の光にも及ばぬ一瞬の事だった。
「俺だけを想え」
甘く耳朶を打つ声に、火照り始めた身はもう昂ぶりを隠す事もままならず、微かに開いた唇から、喘ぎにも似た熱い吐息が漏れ始めた。
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