さくら(参)




「精が出るな」
 おとないも立てず、障子が開いた。土方はちらりと視線を動かしたが、それだけだった。黙々と筆を動かし続けている。
「昨日、春が近いと浮かれてみれば、しっぺ返しの様に、今日は冬へ逆戻りだ」
 が、八郎は、そんな相手の態度を気に留めるでも無く独り呟くと、長火鉢の前に陣取った。初めて見る長火鉢だった。
「あんたが見つけて来たのかえ」
 応えは無い。
「江戸風だな」
 八郎も八郎で、殺風景な部屋に増えた置物を、興味深げに観察している。

 微に入り細を穿ち、生活の末端まで、江戸と上方では様式も考え方も違う。長火鉢ひとつを取ってもその例外では無い。
 上方のは煙草や茶道具を置けたり、そこで食事が出来る程縁が広い。その分、場所も取る。江戸のは箱状が多いが、中には、下に小さな抽斗や、横に猫板と云う、茶道具などが置ける張り出しが付いているものもある。八郎の前のは、小振りの抽斗が三つ付いている、江戸風の長火鉢だった。しかし土方が、それまでの達磨火鉢から、長火鉢に変えたのには訳があった。それは達磨火鉢には無い、抽斗への拘りだった。
 
 抽斗に収まっているものが、田坂の寄越した咳止めと、もうひとつ、嘗て江戸にいる頃、土方自身が売り歩いていた石田散薬である事は誰も知らない。想い人は、田坂の薬の他は、多摩の川原に群生する雑草から作るこの薬以外、頑と口にしない困り者だった。その二つの薬の保管箱として、土方は火鉢の抽斗に目を付けた。ここならば、湿気を嫌う薬の置き場に最適だった。それにいざと云う時、人を呼ぶ手間が省ける。火鉢を替えた理由は、そこにあった。
 土方にそのような思惑があったとは知る由も無く、八郎は時折手を摩り合わせ、心地良さそうに暖を取っている。

「京の寒さは、鉛雲がのし掛かって来るように重い。気が滅入る。だが京がこれじゃ、北国はさぞ寒かろうな」
 渋い声が、古都の底冷えをごちた。
「北国と云えば、…富山前田家。…あそこも色々と複雑な事情を抱えている。その辺りは、周知の事だ」
 相変らず、土方は応えない。
「何しろ、家の血が断たれた訳じゃないのに、本家から藩主を迎えざるを得なかった。尤も、藩主と云っても年端も行かぬ子供じゃ、傀儡も同然だ。今や富山藩の実権は本家の加賀前田家にあり、一から十まで加賀の思うままだ」
 暖が体を巡ったか、世間話を聞かせる調子は滑らかだった。
「だが本家に牛耳られ、御家の矜持を踏み躙(にじ)られている富山の連中は、穏やかではいられないだろう。が、御家を守るには、そうせざるを得ない。…武士の世の定めとは云え、何とも辛い処だな」
「伊庭…」
 書き終えたものを目で追いながら、低く、土方が呼んだ。
「遠まわしはいい、ついでに貴様の御託も要らん」
「分かりやすく、順を追って説明してやっているんだぜ」
「余計だ。知っている事があるのなら、さっさと話せ」
 機嫌の悪い声を聞いた口辺に、笑いが浮かんだ。
「富山の話だ」
 その唇を、八郎は湿らせた。


――富山前田家は、加賀前田家の支藩である。石高は十万。新田の開発や漁業、蚕業、製紙業の振興、そして何より、富山と云えば薬売りと、人々に連想させる売薬業で家中の繁栄に努力して来た。しかし藩財政は、独立時に前田本家から受けた借財などが尾を引き、常に苦しい状態だった。又、藩領が急流河川域である為、大雨の氾濫で度重なる被害にあって来た。更に天保二年には大火、安政五年には大地震に見舞われ、逼迫していた台所事情は極限にまで追いやられた。こう云う状態の中、富山藩の不幸は更に続く。藩主家の、父子諍いが表面化したのだ。
 十代藩主前田利保(としやす)は、和歌、能、国学、又薬草学などに通じた文化人であった。その利保が隠居すると、実の子、利友が後を継いだ。だが利友が藩主となるや、母の毎木が、藩政に口を出すようになった。やがて富山藩では、国許では前藩主の利保派、江戸では利友派と云う、二つの派閥が形成されるようになり、抗争は家中に混乱を招くまでに加熱していった。そんな折、利友が早世した。すると毎木派は、利友の弟である利聲(としかた)を、十二代藩主に据えた。
 若い藩主利聲は、何とか自身で財政再建を図ろうと努力した。しかし息子を助けようと先を焦った母の毎木は、江戸家老らと結託し、幕府に直接働きかけ、飛騨高山五万石を入手すべく画策した。五万石の加増があれば、藩が潤うと考えての事だった。だがその密謀を事前に知った利保は、本家加賀藩にこの事を知らせた。支藩の勝手な行動に激怒した加賀藩は、江戸家老を自害させ、毎木を蟄居に追い込み、利聲にも一切の政務から退かせ藩の実権を利保に握らせた。
 そして二年の後、利保が没すると、加賀前田家は、今度は堂々、加賀藩主前田斉泰の実子、四歳の利同(としあつ)を富山藩主として送り込んだ。
 そのような経緯を経て今富山藩は、実質上、本家加賀藩に支配されている。
 八郎の語りは、そう云う富山前田家の事情の、ほんの触りをかいつまんだものだった。


 長火鉢の脇に、小さな漆盆がある。その上に、急須と、やや大振りの湯呑みが二つ。狭い口から湯気を上げている鉄瓶を取り上げると、八郎は急須に湯を注いだ。茶は、自分の呑む分にだけ淹れられた。

「現藩主の、二つ前の藩主、つまり隠居中の利聲殿の実父、利保殿の事だが…。侍医は、島崎と云う医者だったそうだ。そしてその息子は、何故か台所方になった」
 湯呑みの縁の熱さに顔を顰めながら、他人事のように、八郎が呟いた。
「尤もあんたの事だ。この位の調べは、疾うについているだろうが…」
 戻らぬいらえに、八郎の片頬が歪んだ。背中の相手を揶揄している笑いだった。
「…そろそろ八ツ(午後二時)だな。昨日キヨさんに夕飯を馳走してもらった。旨いと云ったら、今日も来いと誘われた」
 立ち上がった気配にも、土方は目をくれようとしない。
「そうそう…」
 障子を開けかけた手が、ふと止まった。
「この長火鉢、あんたの買い物かえ?」
 上から降って来た声に、険のある視線が、初めて八郎を捉えた。
「抽斗が、薬を入れておくにゃ、丁度いい大きさだな」
 邪魔したな、と後ろ手で障子を閉めた背が、不機嫌顔を笑っていた。






「島崎はんなら、庭ですわ」
 開口一番、キヨは教えた。まるで総司が来る事を、予め知っていたような物言いだった。それに総司の瞳が瞬き、次に、頬に薄い朱が上った。昨日あのような事があって、それを気にして来訪する事を、キヨは見抜いていたらしい。
「今、草むしりしてはりますわ」
「…頑固なのだから」
 キヨの前では、ぽろりと素の感情が出てしまう。だがそんな自分を総司は知らない。柔らかく細められたキヨの眸の中で、綺麗な眉根が少しだけ寄せられた。


 田坂家の広い庭には、数多の高木灌木が植えられている。今の時期はそれでもいい。これが夏近くなると雑草が生い茂り、奥には行けない有様になる。しかし素人目からはただの雑草と思えるそれらの中には、わざわざ根を取り寄せ、栽培している薬草もあるのだと云う。そんな訳で、これまで草の間引きは、田坂一人にしかできぬ仕事だった。だがその大事な仕事を、田坂はいとも簡単に音人に任せてしまった。それは音人にそれだけの知識があると云う事であり、同時に、田坂の、音人に寄せる信頼の表れでもあった。
 そしてその音人に翻弄されながらも、不思議と親さを覚えて行く自分に、総司は戸惑っていた。
 
 
 ごく間近まで行って、音人は漸く総司に気づいた。別段、気配を殺していた訳では無いから、やはり勘は鈍い方なのだろう。それでも声を掛ける前には振り向いた。だがだからと云って立ち上がるのでも無く、又間引き作業に戻ってしまった。
「手伝います」
 傍らに膝を折ると、音人は横目で総司を見た。
「要らん」
「少しは役に立ちます」
「迷惑だ」
「下手に手伝って必要な薬草まで抜かれてしまうと、キヨさんのご飯が美味しくなくなりますか?」
 横柄な物言いに込み上げたのは、笑いだった。音人の無愛想にいつの間にか慣れてしまった自分が、総司には可笑しかった。
「分かっているのなら聞くな。この仕事は俺の飯の糧だ。邪魔されるのは御免だ」
「では見ています」
「風変わりな奴だな」
「後学の為です」
 笑みを湛えた瞳に見詰められ、音人は面倒そうに息を吐いた。が、それ以上否定する事は無く、黙々と手を動かし始めた。

 置き忘れた季節の名残か、時折、雪すら舞うこの頃合い。
生命力に富んだ雑草と云えど、葉をつけているものは殆どなく、茎も白っぽく枯れている。それ故、総司の目には、どれもが同じように見える。だが音人は土の中まで見えるのか、抜くものと抜かぬものを一瞬の内に判別して行く。躊躇と云うものが無い。卓越した手際の良さだった。

「島崎さん、お医者さんだったのですか?」
 言葉にした時、総司には、そうであったろうと云う確信が出来ていた。
「いや」
 が、音人は横顔を見せたまま、短く否定した。
「医者では無い。だが家の庭も、薬草だらけだった。だから大概は分かる」
 総司の瞳が、一瞬、音人を凝視した。それは音人が音人自身を語った初めての言葉だった。だが語りはそこで終わり、音人は総司の視線を弾くように顔半分を歪ませ、抜けぬ根と格闘し始めた。
 ややあって、長い根が地から抜け出た時、渾身の力を振り絞った額には、うっすら汗が滲んでいた。
「しぶとい根だ」
「しぶといのは、島崎さんだと思う」
 悪戯げな声に、手こずらせた根を見ていた目が、ちらりと総司に向けられた。
「世話焼きのお人良しとばかりか思っていたが、案外、人を見る目は鋭いようだな」
「そうでしょうか?」
 皮肉られて、総司は楽しげに笑った。
「根こそぎ取っても、又次の年には芽を出す。土に生きるものもしぶといが、人間の業も似たようなものだ。どっちもどっちだ」
「島崎さんにも、そんなに深い業があるのですか?」
 意外な言葉を耳にし、怪訝に問うた刹那、音人の顔に苦しげな色が兆した。だがそれは直ぐに、固く結ばれた口元の厳しさに隠されてしまった。
「これは抜かないのですか?」
 話の継ぎ穂を探すように、総司が慌てて目の前の草を指差した。
 それは他の草と同じで枯れてはいたが、真ん中に種があるらしく、その種を守るように白い冠毛がある。葉の縁どりは、細かい鋸(のこぎり)の刃に似ている。
「抜かん」
「何なのだろう?」
「おけらだ」
 首を傾げた途端、愛想の無い声が返った。
「珍しくもあるまい、秋になれば白い花が咲く。良く見るだろう?」
「そう云えば…、前に田坂さんからも聞いた事がある。私がおけらと云う名前が可笑しいと笑ったら、都が京に移る前からある古いものだと云っていました。ではその頃から、おけらは薬になっていたのでしょうか?」
 呆れ顔にも気付かぬ様子で、問う声が逸る。音人との会話が繋がった事が、総司には嬉しい。
「万葉の頃は、宇家良。それが訛ったと云う事だ。根は薬になる。脾臓を健やかにしたり、体の中に溜まった悪い水を出す」
 草むしりを始めた横顔が教える調子は、咀嚼(そしゃく)し抜いて聞かせるように淀み無い。
「島崎さん、やはり…」
「俺は医者では無い。少しばかり興が高じてかじった事があるだけだ」
 もう一度問いかけた言葉に言葉を被せ、音人は総司の疑問を折った。


 暫し又、会話の無い時が流れた。
 音人は草の間引きに精を出し、総司はその作業を熱心に見ている。…そうしてどれ程過ごしたものか。気配に気づいて総司が振り向いた時には、寒風に晒され顰め面を作っている八郎の姿が濡れ縁にあった。

「其れを、外したらどうだえ?」
 声は、八郎の方が早かった。 しゃくった顎で指したのは、総司の腰にある刀だった。
「草むしりにまで、帯びることはあるまい?」
「本当だ」
 云われてみればその通りで、衒いの無い声が自分を笑った。
「八郎さん、今日は?」
「非番だ」
「昨日もそうではなかったのですか?」
「上様の警護は、気骨が折れるのさ」
 しれっと返ったいらえに、総司の面輪に呆れた色が浮かんだ。何処までが本当なのか掴めぬ相手に、総司もそれ以上は問わず、縁まで来ると腰帯から刀を抜きかけた、その時だった。
「今日は終わりだ」
 後ろから声が掛った。見れば音人が立ち上がっている。
「風が出て来た」
袴を叩いている姿は、一仕事終えた、と云った風情だった。
「そいつはどうするんだえ?」
 手から離さない一握りの枯れ草に、八郎は興を持ったようだった。
「飯の後の、暇つぶしだ」
 いらえにもならぬ言葉を残すと、音人は背を向けてしまった。
 
「つくづく、お前は変わった奴を拾って来るねぇ」
 角を曲がろうとしている、ひょろりとした背を見ながら、八郎が呟いた。
「そうかな?」
「まぁ、今更だが。…ところで、何か収穫があったようだな?」
 細めた目が、からかうような色を浮かべている。
「島崎さんの家の庭にも薬草が一杯あって、そちらの勉強をした事があると教えてくれました」
「らしいな。手にしていた枯れ草にも、何かの薬効があるのだろうよ」
 濡れ縁に腰かけながら八郎は、先程まで音人がいた辺りに視線を移した。その裡には、総司のような、音人への親近感は無い。あるのは、音人が、富山藩の侍医であった島崎周(あまね)の嫡男だと云う事実だけだ。しかも音人は家を継がず、国許で台所方に属していた。異例の事だった。その理由が、分からない。尤も、昨日の今日と云う短さを考えれば、此処まで辿りついた事自体、奇跡と云えた。

 音人の言葉尻にある、朴訥とした訛り――。
 それが昔、実家である御徒町の心形刀流道場にいた内弟子の語り口と、良く似ていた。その者の国許が、富山だった。どこから調べを始めようか思案の中、ふとその事を思い出し、今朝伝手を借り、富山前田家に仕える者に会う事にした。そんな風だったから、八郎自身、取っ掛かりになれば幸いと、そう期待があった訳ではない。しかしまさかの驚愕は、何気ない会話の途中、突然やって来た。
 富山の売薬について話を聞きたいとの嘘に乗ってくれた納戸役の口から、島崎と云う名が出た時、八郎は言葉を失くした。没した利保は薬草について数々の著書を残す程、薬草栽培に力を入れていたが、その編纂には侍医である島崎周が常に関わっていたと、其処までは記憶している。だが後は、どんな話をしたのかも覚えていない。それ程に、衝撃的だった。
 まるで導かれるように、辿りついた音人の過去…。
 人はこれを偶然と呼ぶのかもしれない。或いは、天が決めた定めと云うのかもしれない。だが何かが八郎を焦らせる。それは胸の裡を重苦しく占めて行く、暗雲のような嫌な予感だった。

「富山と、加賀か…」
 独り呟いた声に、傍らの総司が八郎を見上げた。その瞳に浮かんだのは、訝しさよりも、憂いを濃くした不安げな色だった。






 行燈の仄かな光の輪からも身を隠すように、伝吉は部屋の隅に端坐している。

「島崎音人の父親周は、確かに先々代の藩主利保の侍医でやした。利保の信も厚く、最後の脈を取ったのも周でやす」
 しゃがれた声が、部屋の静けさを重くする。
「伝吉」
 山崎が口を挟んだ。
「では何故音人は、周の跡を継がなかったのだ?侍医ともあろう家柄、しかも音人は嫡男だ。その音人が台所方に属するなど、考えられないが…」
 問いかけは、伝吉の少ない言葉を、土方の欲するいらえへと導く。
「そこの処は、誰に聞いても曖昧な答えしか返って来ないそうでやす。と云うよりは、誰も知らないと云うのが本当のようで」
「本当に、誰も知らないのか?」
「へえ」
 低く頷いた時、それまで腕を組み、目を閉じ、一枚岩のように動かず二人の遣り取りを聞いていた土方が、初めて細く眸を開いた。
「隠居中の利聲と、島崎音人との接点は無いのか」
「今日調べた限りでは、ありやせん」
 確かな声が返った。
「島崎の父親は、利聲の派閥とは対立する利保派。音人も、医者は継ぎやせんでしたが、父親と同じ国許の利保派。つまりは、現藩主派に属する人間でもありやす」
「では加賀よりか」
 伝吉は、黙したまま頷いた。
「しかし…」
 山崎が再び言葉を挟んだ。珍しい事だった。土方は視線で先を促した。
「台所方は一日の食事の献立、食材の仕入れ、器の管理など、捉え方によっては一番藩主に密着した役務です。そしてその中には…」
 山崎は、己の裡にある疑問を言葉にして良いものか逡巡するように一寸間を置いたが、すぐに土方に視線を戻した。
「お毒見役も、含まれています」
 土方の目が、鋭い光を湛えた。
「それは島崎音人が、毒見と云う役を務めながら、藩主暗殺に加担していると云う事か?ならば現藩主派と云うのは仮の姿で、実は隠居中の利聲派だと云う事になる」
「御推察の通りです。突飛でも無い推測と思われるでしょう。が、侍医であった家から、敢えての台所役。其処に辿り着いても不思議ではありません。しかも田坂先生によれば、島崎音人は、薬草についてかなりの知識を持っているとの事。疑えばきりがありません」
「本家寄りの、利保の任熱かった医師の嫡男が毒見役なら、現藩主の実家加賀藩も安堵しよう。ところが、その毒見役が突如として消えた。もしお前の推測が当たっていれば…、島崎音人と云う男、この上無い厄介な荷を背負っているな」
 うんざりとした声が漏れた。
 二言三言の遣り取りで、土方は山崎の意図する処を読み取ったらしい。しかし或いはその事は土方の裡で、すでに推測済みだったのかもしれない。素早い応答が、それを証明していた。
 片頬に火影を映した峻厳な横顔を、山崎は改めて見詰めた。

 暫し重い沈黙が流れたが、それは束の間にも足らなかった。
「伝吉」
 黙考していた土方が、短く呼んだ。
「福井の藩主は、生きているのだな」
 口を一の字に結んだ、一刻そうな顎が引かれた。
「…毒殺は、失敗か」
 憮然と呟いた調子が、物憂げだった。
「伝吉、お前はこれから福井に入れ」
「調べるのは、島崎音人の事だけで?」
 研ぎ澄まされた勘が、主の、次なるいらえを促す。
「いや、もう一人…」
 肌には分からぬ隙間風が、焔の先を揺らした。それが整い過ぎた感のある横顔に刻んだ翳を深くする。
「若すぎる世捨て人、前田利聲…。おそらく、島崎の本当の主だろうよ」
 まだ見ぬ影を掴むように、土方は、鋭い双眸を細めた。

   



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