さくら(四)




「いつもあんなものかえ?」
 茶の香りを楽しむように、八郎は掌の中で湯呑みを回した。
「あんなに早く食べたら、味など分かるのかな?」
「お前の考える先は、其処か?」
「では八郎さんは、何が云いたいのです?」
 呆れ混じりの吐息に返した声が、つい尖った。

――男四人、キヨの心づくしの膳を囲んだ夕餉は、あっと云う間に終えた。途中、八郎も総司も当たり障りの無い話題を向けたが、音人はそれに短く応えるだけで、話の盛り上がる事は無かった。しかも食べ終わるや否や、総司達と居る事を避けるように、早々と部屋へ戻ってしまった。

「まぁ、旨いか不味いかは、食べた人間の舌次第だが…」
 八郎の後を受けて、田坂はやや俯き加減にしている面輪に目を遣った。此方を見ようとしないのは、物言いの中にからかいの名残を感じ、怒っているからなのだろう。だがそんな姿を目の当たりにすれば、もう少し怒らせてみたいと、今度は意地の悪さが頭をもたげる。
「あの人も、勉強に費やす貴重な時を邪魔されたく無いのだろうさ」
 裡に芽生えた良からぬ想いをそっと仕舞い、田坂は茶を啜った。
「勉強?薬草の?」
 仕掛けた罠は、てきめんだった。寸暇を置かず、深い色の瞳が上げられた。
「らしいな。以前、そんな草をどうするのかと聞いたら、効用を調べるのだと云った。が、俺の見る限り、それは表向きの云いわけさ。あの人の頭の中は、下手な本や古文書より豊富な知識で満たされている。小川屋といい勝負ができる程だ。この期に及んで勉学もあるまい。そうなるとやはり他人と居るのが苦手なのだろうな。それに彼の興は薬草そのものではなく、その調合にあるようだ」
「調合?」
 八郎の声に、一瞬、鋭いものが兆した。しかし総司の逸る心は、その機微を聞き逃した。
「田坂さん、今云った調合って…」
 膝を詰めるようにして問いかけた調子が、急(せ)いていらえを求めた。が、その直後だった。彼方から、馴染みのある足音が聞こえて来た。三人の視線が障子に注がれると、それを待っていたように足音は早くなり、やがて行燈の火影が、主より大きな影を障子に映した。
「お話中に、えろうすみまへん」
 柔らかな声が、おとないを立てた。
「どうした?」
「へぇ、あの、どなたはんでもええんですけど…」
 無造作に障子を開けた田坂を、キヨは申し訳なさそうに見上げた。
「ちょっと手を貸して貰えませんやろか?甚太はんとこの赤ちゃんが、風邪引いてますやろ?それで蔵にある、使っていない火鉢をお貸ししようと思いますのや」

 甚太と云うのは、十日程前に近くの裏店(うらだな)に越して来た飾り職人だった。甚太には女房との間に、生まれたばかりの赤子がいる。その子が風邪を引いてしまったが、若い二人には金が無く、医者にも診せられずにいた。その様子を見かね、同じ裏店で塾をやっている、総司とも馴染みの芝三十郎と云う浪人が、夫婦と赤子を田坂の処へ連れて来た。幸い赤子は大事に至らずに済んだが、芝から事情を聞いたキヨは、火鉢も無かろう家の寒さを案じ、使っていない火鉢を甚太の家に運ぼうと思ったらしい。裏店までは目と鼻の先だが、いくらキヨの肉付きが良いと云っても丸火鉢ひとつ、女の手で運ぶには無理がある。そう云う訳で、その相方を探しに来たようだった。
 
「私が行きます」
 真っ先に立ち上がったのは、総司だった。
「へぇ、おおきに。けど…」
 衒いのない笑い顔に微笑んだキヨだが、視線は残りの男二人に注がれている。その目が、明らかに不満を湛えている。しかし男たちは視線を合わそうとはしない。一寸、気まずい沈黙が流れたが、期待した者たちにその気が無いのを見極めると、キヨは、なだらかな線の眉を顰めた。そして総司に向かい、
「男義のあるのは、沖田はんだけの様ですなぁ。まぁ、ええですわ。ほな、沖田はん、よろしゅうお頼もうします」
 だんまりを決め込んでいる二人へ見せつけるように、大仰な素振りで頭を下げた。



 去ってゆく足音のひとつが、怒っている。その気配がすっかり無くなると、田坂が小さく吐息した。
「キヨは沖田君贔屓だからな」
「俺も当分、ここの旨い飯にはありつけんな」
「うちの居候殿のように何事にも動じず、黙々と箸を動かしていればいいのさ」
「できない相談だね」
「そう繊細にも思えんがな」
「何処かの厚顔とは一緒にしないでくれろ」
「今頃、西本願寺でくしゃみをしているぜ」
「噂でくしゃみが出る程可愛げのある男か、あの仏頂面が。尤も、鬼の撹乱と云う奴を、一度拝んで見るのもいいがな」
 背伸びをしながらの声が、間延びした。
「ところで…、話があったのだろう?島崎音人の事で」
 その屁理屈に苦笑しながら、田坂が話を振った。
「名医は察しがいいな」
「俺はキヨを怒らせたんだぜ。今晩からは俺が居候扱いだ。その犠牲と引き換えとなれば、さぞや大した話なんだろうな」
「あんたが残ったのは、こっちの話に興が勝ったからだろう?内輪の揉め事まで責任持てないね」
 胡坐をかいた片膝に頬杖ついている顔が、愉快げに笑った。
「ま、いいさ。キヨの怒りはあんたも等分に被る訳だ。それより早くしないと帰ってくるぜ、あの二人」
 障子の向こうにちらりと視線を遣り、田坂は喰えぬ相手を促した。
「富山前田家だ」
「…富山?」
 何の連脈も無い突然の言葉だったが、田坂は頷く八郎の目にある光の鋭さに、声を低くした。
「島崎音人は、富山前田家の台所方だ」
「台所方?」
 問い返した声に、意外と云う響きがあった。
「あの人の薬草の知識は、一朝一夕で成し得たものでは無いぜ。彼の人生の大半を費やし得たものと云って過言じゃない。台所方に席を置く人間が、片暇に勉強して来たものとは思えない」
 短い間ではあるが、間近で観察して来た上での言葉に、八郎の双眸が細められた。
「不自然と、そう思うのが当然だろうな。ならこう云ったらどうだ?…島崎音人の父親は、富山藩前々代藩主、前田利保殿の侍医だった」
「医者?」
「頷けるだろう?」
「長(た)け過ぎる位だ」
「それにしちゃ、不満そうだな」
「そうでもないさ。お陰で納得できた。だがそうなると、侍医を務めた家が、今は台所方と云うのが妙だな。あの人は嫡男ではないのか?」
「嫡男さ」
「…さっき、前田利保殿の名前が出たな」
「出した」
 出たとは云わず、出したと、敢えて云い換えた物言いが険しい。其処に八郎の思惑を察し、田坂の面にも厳しい色が走った。
「確か…、藩主の座を譲った息子と藩政を二分した末、本家の加賀藩の力を借り、お家騒動を収めた殿様だな」
「そうだ。その代償に、富山藩は加賀藩の監視下に置かれ、利保殿の息子利聲殿は、藩政から退かざるを得なくなった。今から九年前の事だ。その後は利保殿が加賀を後ろ盾に、事実上の政権を握っていた。その利保殿も七年前に亡くなられると、富山藩は本家から養子を迎えた。それが現藩主、利同(としやす)殿だ。御年四歳だったから、今は十一歳か」
「十一歳…。藩政を司るのは無理だな」
「傀儡さ。実際、今富山の藩政は本家の加賀藩に牛耳られている。お陰で富山の家中は、再び隠居中の利聲殿派と加賀派に二分されるようになったらしい」
「父親が利保殿の侍医であった事を考えれば、島崎さんは加賀派になるな」
「理屈で行けば、な」
「引っかかる云い方だな」
「引っかけたつもりはないさ。だが親がそうであっても、子がそうであるとは限らない。現にあの人は医者にならず、親とは違う道を歩いている」
 語りながら、八郎は部屋の隅に置かれた行燈に視線を遣った。漏れる灯は、闇を押遣るには弱い。その仄かな灯りの中で、田坂は、彼方にある何かを見据えるように黙考している。

「台所方か…」
 不意の呟きに、八郎が視線を戻した。
「脈は取れないが、毒見は出来るな」
「島崎音人が反加賀派で、台所方と云う立場を利用し、藩主に毒を盛っていたとでも云いだすのかえ?怖い医者だな」
 いらえの声が、笑った。
「可能な限りの想像を云ったまでさ」
「確かに、今の段階では全ては推測の範疇を出ない。確かな証は一つも無いからな」
「これは俺の勘だが…」
 勘と前置きしながら、田坂の口調に迷いは無かった。
「あの人、どうも周りを警戒している節がある」
「警戒?」
「何を警戒しているのかまでは分からん。が、様子を見ていると、妙に外を気にしている。先日此処を出て行こうとしたのも、もしかしたら、一処にとどまる事で探し当てられる事を恐れたのかもしれん」
「それも勘かえ?」
「勘だ。が、多分当たっている」
「となると、さっきあんたが云っていた、突飛でも無い憶測、毒見役と云う立場を利用して云々と云う話が、俄然真実味を帯びて来るな。しかも富山藩主が死んだとの噂は流れてこない処を見ると、計画は頓挫したと見て良いだろう。その原因が島崎音人の裏切りだとしたら、雇い主は即座に彼を消す筈だ。ならば逃げているのは、差し向けられた刺客からか…」
「可能性は大きい。だがそうだとしたら、島崎音人を狙っている輩は他にもいる」
「加賀藩か…」
 声を沈めた八郎に、田坂が頷いた。
「島崎さんが藩主毒殺に関わっていたと知ったら、加賀藩は目の色を変え、彼を探す筈だ。反加賀派を叩き潰す、生き証人としてな」
「ここで反加賀派を一掃出来れば、富山の藩内は落ち着き、藩政も完全に掌握できる。加賀藩にとっちゃ、島崎音人は喉から手が出る程欲しい罪人って訳か」
「富山藩の反加賀派は、一刻も早く消したいと焦り、加賀藩はそれをされる前に捕まえたい。…全ては、憶測に過ぎんがな」
「憶測も、あんたが云うと本当になりそうだな」
「やめてくれ、面倒は避けたい」
 茶化し半分の笑いに返した田坂の声が、心底物憂げだった。

 寸の間、言葉の途切れた重い静寂が闇に沈んだが、ふと、八郎が視線を上げた。
「…帰って来たな」
 遠くから、微かな物音に続いて、総司とキヨの楽しげな笑い声が聞こえた。
「キヨさん、機嫌が良さそうだな」
「あの機嫌の良さの倍、しっぺ返しが待っている。来たい時だけ来るあんたと俺じゃ、訳が違う」
 うんざりとごちた呟きの最後が、重い吐息に変わった。






 薬種問屋小川屋は、新撰組の屯所から行くと、鴨川の右岸、五条橋の直ぐ手前にある。丁度荷が着いたばかりらしく、体格の良い男達が、大八車と店の奥にある蔵を忙しげに行き来している。その活気に満ちた様子を横目に見ながら、総司は、緩い円曲を描く五条橋を踏みしめた。

 春まだ浅い風は、川を滑りながら勢いを増し、橋を渡る者に容赦なく吹き付ける。殊更強いそれに煽られ、思わず片目を瞑った刹那、総司の足がふと止まった。視線の先には、冬枯れの色濃い川原に屈み動かぬ人の姿がある。
「島崎さん…」
 呟きが風に千切れた時には、足は橋板を蹴っていた。

「島崎さんっ」
 息を弾ませた声に、音人が振り向いた。傾き始めた陽が眩しいのか眸を細め、近づく影を見上げている。
「何をしているのです?」
 総司は音人の隣に膝を折った。
「見ての通りさ」
 そう云われても、総司には分からない。音人の脇には、此処で抜いたらしい草が少しばかり積まれている。それを見、思わず首を傾げてしてしまったのは、其処から答えを見つけ出そうとする自然な仕草だった。が、その素直な感情の発露が、音人の心を開かせたらしい。
「小川屋へ行った帰りの、道草だ」
 いつもは固く結ばれている口辺に、薄い笑いが浮かんだ。
「道草?」
 頷いた顔はもう愛想の欠片も無かったが、総司を見る眼差しには、それまでには無い親しげな色がある。
「また薬草を探していたのですか?」
「診療所で使えるものがあれば良いと思ったが…」
「無いのですか?」
「季節を考えれば、仕方があるまい」
他愛の無いやりとりを、あまりに真剣な瞳で問う総司に、先程よりも柔らかな声のいらえが返った。
「小川屋さんには無いものなのですか?」
「小川屋に都合して貰えば金がかかる」
「でも田坂さんはいつも小川屋さんに…」
「小川屋だけで調達しているのならば、庭に、あのように沢山の薬草を栽培する必要はあるまい」
「あっ…」
 音人の言葉に、総司は息を詰めた。

 確かに音人の云う通りだった。田坂と小川屋の関係は、商いを超え、互いの信頼関係の上に成り立っている。だが田坂は決して小川屋に甘えるような事はしない。幾ら固辞しても、律儀すぎる払いに困るのだと、いつか小川屋が苦笑交じりに零していた事を、総司は覚えている。田坂の診療所は、昼も夜も無く忙しい。だがだからと云って、潤っているとは思えない。それは先日の飾り職人の夫婦のように、金の無い者の勘定はいつまでも待つし、踏み倒される事も珍しくないからだ。そう云う時でも田坂やキヨは、無い袖を振らせた処で何も出てこないと、涼しい顔をしている。しかしその陰で田坂は、薬代を払えない貧しい者達の負担を少しでも抑えようと、自ら庭に薬草を栽培していたのだ。そして音人が今、手を土まみれにして薬になる草を探していたのは、そう云う事情を知った上での行動だった。

「…何も知らず、私は田坂さんに甘えっぱなしでした」
 気づかなかった自分が情けなかった。白くなるまで唇を噛みしめた総司を、音人は黙って見ていたが、やがてゆっくりと川へ視線を遣った。
 川は、小波(さざなみ)が立つたび、斜めから受けた陽を四方に散らす。その輪が重なり合い、渦を巻くように、金色の光が流れ行く。

「誰かに甘えられるのは、幸いな事だ」
「…え?」
 ぽつりと漏れた呟きに、上げた瞳が、川を見詰めている横顔を捉えた。
「素直な感情を、自分以外の誰かにぶつける事が出来るのは幸いだと云ったのさ」
 音人は小石を掴むと、無造作に放り投げた。手を離れた瞬間、それは遊ぶように水面を跳ね、更に遠くへ飛び、光に呑まれた。
「前に、島崎さんの家には田坂さんの処と同じように、沢山の薬草があると聞きました。それは島崎さんが植えたものなのですか?」
「いや、死んだ父親が集め、植えたものだ」
「お父上が?」
「そう驚く事は無い。俺と云う人間が今此処に在る事は、その親が居たと云う事だ」
 物憂げに語る音人を、総司は見詰めた。
「尤も、父は田坂さんのように実際に人の役に立てる為に植えた訳では無く、あくまで己の勉学用にしていたがな」
「島崎さんのお父上は…」
「医者だった」
 いらえは、躊躇するように途切れた語尾を継いで返った。
「ではやはり島崎さんも?」
 それは幾度か否定されて来た問いだった。だが総司は敢えて同じ言葉をぶつけてみた。
「俺は親の仕事は継がなかった」
「何故…?」
「嫌いだったからだ」
 寸暇をおかず、音人は返した。川を見詰めている横顔からは、感情の綾を見つける事は出来ない。が、総司は言葉を重ねた。
「私には分からない事があります」
 音人が訝しげに視線を向けた。
「嫌いなものなら、何故島崎さんは、あんなに熱心に薬草の事を調べたり、田坂さんの手伝いをしているのです」
 問いながら、総司は自分の声が硬くなるのを感じた。

 漸く開きかけた音人の心である。その奥に秘する琴線に触れたが故に、音人の心は再び閉ざされてしまうかもしれない。しかしここで踏みとどまれば、島崎音人と云う人間の底に流れるものを知る事できぬままで終わってしまう。一時の縁と思えば、それでも良いのかもしれない。だが音人は、田坂や其処に集まる人々の為に、吹き曝しの川原でひとり黙々と薬草を探していた。その後ろ姿が、総司に、島崎音人を他人では無くした。
 
「知りたいのです」
 己を鼓舞して問う瞳が、ひたと音人を見詰めた。
 音人は応えない。途切れた時を縫うように、流れ行く水だけが瀬音を響かせる。ややあって、音人の視線が、瞬きもせぬ瞳から川へ逸らされた。
「医術や薬術を学ぶ事は、嫌いではなかった。いや、むしろ薬草に関しては、何と何をどのように配分すれば、どう効き目が出ると云う面白さは、寝食すら忘れる程に面白かった。…京に寄ったのも、奈良にある薬草の村へ行く途中だった」
「薬草の村?」
「小さな村だが、幕府直轄の薬草園があり、薬草の栽培が盛んだと云う。噂を聞いて、一度は訪れたいと思っていた」
「そこまで思い入れが深いのに、何故その道に進まなかったのです。やはり私には分かりません」
「父親が、憎かった」
 強い口調だった。一瞬息を呑んだのが分かったのだろう。音人の視線が総司に向けられた。
「生涯をこの道に費やしたい、そう思えるものがあっても、その志を阻む程に憎いものが、俺にはあった」
「それが、お父上…?」
「そうだ。父の後を継がず、道を違(たが)えたのは、精一杯の抗いだった。俺は父を憎み、憎み続けた」
「そのお父上への憎しみは、今も島崎さんの心にあるのでしょうか」
 束の間、音人は無言で総司を見ていたが、やがて再び、川へ視線を戻してしまった。

 陽は西に傾きを増し、川は煌めきを白くし始めた。
 頬を嬲る風に、針のような冷たさが潜む。
 川を見ている音人の横顔を、総司は見詰めている。
 父親が憎いと云った音人は、もしや心の反対を見せたのではと、そんな思いが胸に重く忍び入る。
 それ程に、硬く寂しげな横顔だった。

   



事件簿   さくら(五)