雪明り (壱)
先ほど女中が足して行った炭が余分だったと、土方は腹の中で舌打ちした。部屋の中に蔓延している、温(ぬる)く澱んだ空気が思考を妨げる。隙を狙って刺す睡魔を、奥歯で噛み殺すのもいい加減飽きた。それは会津藩用人、神埼一元も同じだったらしく、
「…遅そうござるな」
神経質に揺らした膝が苛立っていた。
「何か遅れる理由が生じたのでしょう」
近藤が取り成したが、神埼はかぶりを振り、
「いや、それならそうで、何か託を寄越すべきだ。多忙な貴殿らに御足労を願ったのは、あちらだ」
強い口調で相手を責めた。しかしその言葉の裏で相手を庇っているのは、十分に解る。咎めざるを得ないのは、彼にとって親しわしい人間なのだろう。
「今に見えるでしょう」
神埼の苦衷に、近藤は労わりの笑みを向けた。
その時、中の者達の機微を察したかのように、足音が聞こえて来た。
「漸く、来たな」
神埼の顔に、安堵が広がった。
入って来たのは、丸い体をした五十絡みと、そしてこれはまだ若い、長身の武士だった。二人は中の者達に目礼をすると、静かに座った。
遠い行燈の灯が、年配者の後ろに控えた若者の、引き締まった口元を印象的に照らし出す。しかし土方は、今は陰に沈んでいる他の造作をも、克明に脳裏に思い浮かべる事ができた。
――寺脇。
腹の裡で呟いた名を確固とするように、切れ長の三白眼が細められ、闇を抉った。
案内して来た女中が去り男だけになると、
「お待たせをし、申し訳ありませぬ」
恰幅の良い武士が神埼に詫び、次にその視線を近藤、土方へと順に回し頭を下げた。そして、
「小浜藩京屋敷用人、直江忠兵衛と申します」
軽く目を伏せ名乗った。
「新撰組局長近藤勇でござる。これは…」
それに近藤が応える形で会釈した後、土方に顔を向けた。
「副長の、土方歳三です」
土方は無言で頭を下げた。
「お二人の事は、日頃、神埼殿から聞き及んでおります。また、こたびは御足労をおかけし、申し訳なく思っております」
直江は近藤と土方を等分に見、目を瞬かせた。そう云う仕草と、幾分、奥に引っ込んだ眼(まなこ)が、この男を実直に見せる。
「そしてこの者は、当藩江戸屋敷の納戸役、寺脇翔一郎と申します」
遅れて来た事を気にしているのか、後ろに首を回し紹(つ)いだ声が、些か急(せ)いていた。寺脇は軽く目を伏せ一礼した。が、それを上げ、近藤土方を見た時、そこには深い親しみの色があった。
「…寺脇、殿?」
正視されたまま、近藤が呟いた。近藤自身、どうにも見たことがある顏だが思い出せず、先程から記憶の狭間を探っていたらしい。その手助けするように、
「お久しぶりですな」
土方が口元を緩めた。
「私の方こそ…。このように再会が叶うとは、夢思いませんでした。試衛館ではお世話になりました」
寺脇は笑みを浮かべた。
「おお、あの、寺脇殿かっ」
漸く、来し方の一点を手繰り寄せた近藤が、遅れて会話に加わった。
「何と、お二人は、寺脇とお知り合いであられたか?」
直江が、驚きに目を丸くした。
「嘗て、それがしが主だった道場に、寺脇殿が見えられた事がありましてな、そう云う縁です。…それにしても、懐かしい」
近藤は上機嫌に、声を昂らせた。
「これは奇遇」
ひたすら驚愕している直江に、
「近藤殿の試衛館と、江戸屋敷とは目と鼻の先。幾度か伺い、竹刀を合わせて頂きました」
寺脇は笑みを浮かべたまま、昔を語った。
「左様であったか。ならばこの先、お主も心強かろう」
「はい」
「いやはや、意外な処で、縁と云うものは繋がっておるようですな」
感嘆の息を吐いた神埼に、土方が視線を向けた。
「神埼殿」
双眸に、再会の僥倖に浸る余韻は無い。
「して、お話とは?」
「そうであった、そうであった」
神埼は、ポンと膝を打った。そして頬を引き締め、促すように直江を見た。それに、直江も厳粛な面持ちで頷いたが、躊躇いがさせるのか、先に続く筈の言葉が中々出てこない。暫し重い沈黙が室に蔓延った。だが最初にそのしじまの重さに負けたのは、直江自身だった。
「実は…」
堅く結ばれていた口が、ゆっくりと開いた。
「昨年の秋、江戸で立て続けに二軒、商家が襲われました。賊の手口は極悪で、盗みは元より、そこに居た者は赤子まで殺すと云う残忍極まるものでした」
直江の太い眉が、皺を刻んで寄った。
「そのように凶悪な賊ならば、今頃、火盗改め、町奉行所は、躍起になり江戸中を探索しているでしょうな」
間髪を置かない土方の指摘に、一瞬、直江は口ごもった。が、すぐに土方に目を向け、
「無論です」
語りを続けた。
「彼らは、我が藩にも幾度も探索の手を伸ばそうとしました。それは襲われた二軒が、共に藩の御用を務める廻船問屋だったからです」
「……」
「ご存知かもしれませぬが、廻船問屋と云うのは、各地の港を回り荷を下ろし、又そこから荷を運んで来る関係上、今その土地で起きている様々な情報を入手し易い。それ故、どの藩でも、廻船問屋に密偵のような仕事をさせている事が間々あります」
「ではその二軒も、小浜藩の?」
声を低くした近藤に、
「裏の仕事も、請け負っていました。…尤も、町奉行所の探索の目が、我が藩と襲われた廻船問屋の、表の繋がりか、或いは裏の仕事の繋がりを見ているのか、そこは知りませんが」
それまで丁寧に言葉を重ねて来た口調が、ふと皮肉めいた。どうやら江戸の捜索諜報機関は、京屋敷の者の眉を顰めさせる程に執拗だったらしい。が、直江は己の蟠りに、すぐに封をした。
「しかし賊は昨年暮れ、国元に姿を現したのです」
肉付きの豊かな顔が憂いに歪められ、少し上ずった声が、先を急いだ。
「襲われた廻船問屋境屋は、酒井家が若狭へ入封した時から藩の御用を務め、またその裏で密偵の仕事もしてきました。藩とは、そう云う長い間柄でした」
粉雪まじりの風が、軒を叩く。細く伸びた灯心が、時折危げに踊る。誰もが直江から視線を逸らさない。その面差しは厳しい。
「直江殿」
ふと、土方が口を開いた。相手に哀惜に浸る隙を与えない、厳しい声だった。
「その犯人の手掛かりを、小浜藩は既に握っているのでしょうか?だがそれには表に出せない貴藩の事情がある…、お話を聞きながら、私はそのように推察したのですが」
失礼を顧みず、と前置きしての物言いは丁寧だったが、据えた目に光る鋭さは尋常ではない。
「土方君、まだ話しは途中だ」
近藤が慌てて嗜めたが、
「よろしいのです」
直江は軽く片手を振り、それを遮った。
「私も、隠すつもりは無いのです。…仰る通り、犯人は分かっています」
微動だにしない土方の横で、近藤が、細い目を見開いた。
「今から打ち明ける事は、決して外には洩らせぬお家の恥部。しかしながら、藩の外は元より、藩内部にすら分からぬよう極秘裏に、しかも早急に事を解決する為には、要らぬ面子は捨て、貴殿らの力を借る他、もう術は無いのです。…聞いて下さるか…?」
問うように視線を巡らせた時、直江は、体に流れる血の一滴まで固めてしまったかのように顔を硬くした。額には、汗すら滲んでいる。
「直江殿」
近藤が云った。
「武士に、聞いて出来ぬはありませぬ。出来ぬのならば、聞く前に席を立てば良い事。だが私は知りたい、聞きたいのです。共に闘う為に、貴殿の背負うている重い荷の中身を。…どうか、お話下され」
しゃがれた声が、朴訥と語る。しかし武骨な、と云うのが相応しいこの語り口が、今は何より効果的に響くのだと、直江に向かい深く頷いている近藤を視界の端で捉えながら、土方は思う。
――直江の様子から推して、事は酒井家の取り潰しにまで発展しかねない大事なのだろう。一藩の浮き沈みなど、土方自身にはどうでも良い事だが、新撰組と云う組織を、より確固増大して行く為には、そうも云っていられない。
幕府が、その権力をどうにか保っている今の情勢下、ひとつの藩の取り潰しは、危い均整を崩す事になりかねない。だとしたら、緊張しながらも、一定の秩序を保っている状態を維持する為に、酒井家の問題は素通り出来ない。新撰組が、後ろ盾無しで機動できる組織になるまで、屋台骨に崩れられては困る。
面倒な、と云う言葉が、腹の裡に膨れ上がる。それを苦虫を潰したような仏頂面で押さえこみ、土方は、直江の肩に手を置いた近藤を見た。
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