雪明り (弐)
暫しの沈黙の後、直江は額の汗をぬぐった。
それが、闇の扉を開く、彼自身の決意だったのかもしれない。 「首謀者は、当藩の元勘定方、浮島克利と云う者です」 寸の間、近藤は視線を宙に据えた。そして戻すと、 「若いのですか?その者」 直江に問うた。 「二十八でございます」 が、応えたのは、直江ではなく、それまで黙していた寺脇だった。 「腕は立ちますか?」 「藩内屈指」 「ほう…」 近藤は、剣術を良くする二十八才と云う若者の人物像を、脳裏で成形するように呟いた。 「近藤殿」 今度は神埼が、近藤を見た。 「直江殿は、その浮島が京に入ったとの情報を得、そして貴公らに手を貸しては欲しいと、それがしを頼られた」 「どのような手段を取っても、捕えねばなりませぬ」 直江は、近藤に視線を据えた。 「襲われた商家から奪われた美術品の多くは、藩が預けたものなのです」 「……」 近藤は直江を凝視し、土方は目だけを細めた。 「我が藩は、古来より大陸への行き来が盛んな若狭港を要し、奈良の文化は、この近江を経て伝わったと云われる程です。京極家から受け継がれた領内に満ちる文化の香気を、藩祖忠勝様は愛され、茶の湯にも親しまれてきました。そのような気質もあり、代々の殿の中には、蒐集家として知られる方も多い。特に、今ご隠居されている大殿、忠義(ただあつ)様にあられては、若狭殿にはものを見せるなと云われる程に、蒐集に金を惜しみませんでした」 「江戸の下屋敷の庭も茶室も素晴らしいものだと、以前噂に聞いた事があります」 近藤が、何かのついでに堀内左内から聞いた話を、些か畏まって伝えると、直江の口元が綻んだ。 「当時は贅を尽くす余裕もあったので、あのようなものが出来たのです。尤もそう云う豪奢な家風が、今回の災禍を招いたとも云えるのですが…」 「と、申しますと?」 「当節、どこの藩も事情は似たり寄ったりでしょうが…。若狭も、三十年ほど前、かつてない冷害にみまわれ、その打撃を今も引き摺っています」 軽い咳払いが響いた後、 「藩の台所は火の車です」 憂いを帯びた声で、言葉は続けられた。 「しかもそう云う時に、大殿が京都所司代の任に就かれた。大殿は元々が蒐集癖の強いお方。京と云う、蒐集には事欠かない地で名品を買い求め続け、思いもよらぬ金が掛かった。それにより財政は更に逼迫し、疲弊した百姓達の不満は募り、遂には一揆と紙一重にまでなった。そこで万策尽きた我々は、大殿、殿と相談の上、酒井家代々に渡る美術品を方代に、金を借りることにしたのです」 己が藩の内情を晒すに躊躇はあっただろうが、一旦腹を決めてしまうと、直江の口は滑らかだった。 「その金の貸主となった商家が、今回押し込み強盗にあった三軒なのでしょうか。また、浮島はその裏の仕事に関わってい、例えば、どの美術品がどの家に渡ったのか、…そう云う事も把握していたのでしょうか?」 巧みに先を誘う土方に導かれるように、 「その通りです」 直江は顎を引いた。 「最後の方は、奴に任せきりでした。どこで学んだのか、若いながら、浮島の目利きはずば抜けていました。古参が舌を巻くほどです。それで美術品の価値から借りる金の額を弾き、それをどの商家に割り振るか…、勘定方に席を置きながら、そう云う折衝と記録をしていたのが浮島でした」 「ならば浮島は、始めから己の企みの為に、その三軒に決めて割り振っていた…とも考えられますな。良く知った家なら、内部の構造にも詳しくなる」 「今思えば、そうとしか考えられません。…飼い犬に手を噛まれるより、お粗末な話です」 語尾が、低い自嘲の笑いに変わった。
「近藤殿」 神埼が、もぞっと膝を詰めた。 「直江殿は、浮島を一日も早く捕えねばならぬもう一つの理由を、奴が、奪った美術品を売り払い作った資金で、討幕を企てようとしている為だと云っている」 「討幕?」 眉根を寄せた近藤に、直江は憂いを濃くした面持ちで頷いた。 「浮島と行動を一つにしているのも、元は当藩の藩士で、彼等は、梅田雲浜に傾倒する若い者達です」 「梅田雲風?」 近藤は訝しげに呟いた。 「やはり当藩の藩士でした。優秀な人材で、大津で塾などを開いていましたが、大殿に意見書を送るなどし、結果藩を追われました。それからは攘夷思想者として名を馳せましたが、安政の事件で捕えられ、その後幽閉先で亡くなりました」 「安政の大獄とは、あの井伊大老の?」 直江の近しい昔話を、近藤が追った。 「くだんの、大獄です。あの事件はご隠居中の忠義様が二度目の京都所司代の御役につき、すぐの事でした。忠義様は井伊大老の片腕となり、攘夷思想者を積極的に捕縛されたのですが、その一番最初の捕縛者が、皮肉な事に梅田雲浜だったのです。…当然、藩内には雲浜を信奉する者、それは身分の低い若い者達が多かったのですが、その者達の不満が渦巻きました。しかし藩は、それを力で押さえこんだのです」 淡い光が、直江の目尻に刻まれた皺を深くした。その顔に映る疲れた翳りを、近藤はじっと見詰めた。
――現在の混沌とした時勢の切欠ともなった安政の大獄とは、安政五年から、翌六年にかけて江戸幕府が行った、弾圧である。 端は、大老井伊直弼が勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印し、また一橋慶喜を推す勢力を退けて、徳川家茂を将軍継嗣に決めたことから発した。 井伊直弼は、これらの諸作に反対した者達を強硬に弾圧し、捕縛された者、蟄居に及んだ者は一橋派の大名公卿から志士まで百名を超えた。その中の一人が、梅田雲浜だと云う。 安政の大獄自体は、新撰組を発足させる以前の出来事で、近藤はまだ江戸に居た。しかしこの衝撃的とも云える事件は、近藤の裡にくすぶり続けていた熱い何かを揺り動かし、見えないそれは、彼の若さを性急に苛立たせ、やがて京に上る階(きざはし)となった。 安政の事件とは、近藤にとってそう云うものだった。 が、思えばまだ胸騒がせるその感傷を、乾いた声が破った。
「しかし…」 土方だった。 「己に傾倒する者が、盗人、人殺しの類では、梅田雲浜とて浮かばれんでしょうな」 「仰るとおりです。奴らは、ただの残忍な人殺しです。奴等は、己らの中に膨れ上がった瞋恚不満を、偽りの大義名分にすり替えたのです。…討幕、攘夷、聞いて呆れる。奴らに思想を語る資格はないっ」 膝の上に置いた直江の拳が震えた。 「私と直江殿は、若い頃江戸で同じ道場に通った、旧知の仲。私からも頼む、小浜に、いや直江殿に手をかして欲しい」 神崎は、じっと近藤を見、そして頭を下げた。その神埼の手を、近藤は取った。 「神埼殿、賊が討幕と狼煙を上げて市中を騒がせるのならば、それはもう小浜だけの問題ではないのです。新撰組は、何としても奴等を捕り押さえねばならない」 「…かたじけない」 今度は直江が、深く頭を下げた。近藤の目に、灯の影に覆われた背が、実際よりもずっと小さく見えた。
「私達は苦慮した末、討手としてこの寺脇を選び、江戸から呼び寄せました。寺脇は浮島を良く知っており、それになんと云っても、浮島と互角に渡り合えるのはこの者だけ故」 「では今後は寺脇殿の手助けをしながら、得た情報は逐次直江殿へお伝えする、と云う事で宜しいでしょうか?」 土方が、手際良く段取りをつけた。 「そうして頂きたい」 「何か手に余るような事があれば、それがしにも云って欲しい」 苦労人の神埼が、多忙な近藤土方に遠慮するように申し出た。 「して、寺脇殿の住処は何処に?」 問われて、 「それがまだ…」 直江の顔に、苦笑が広がった。 「寺脇は一度脱藩と云う身分にし、京に滞在させるのですが、その住処もこれから探すところです。何しろ急な決め事で、寺脇が京に着いたのもつい先ほど…。本人も慌てたのでしょう、不慣れな都で道に迷い、このように皆さんをお待たせしました」 項にかいた汗を拭う仕草が、京屋敷用人と云うには垢ぬけない。直江忠兵衛と云う男に垣間見える不器用な実直さが、負うた仕事の重さに負けている。 「では、伝五郎殿に、今回も労をかけては如何なものだろうか、土方君」 つられたように笑みを浮かべ、近藤が土方を振り返った。 「異存はありませぬな」 土方は、短く応えた。 「伝五郎殿、とは?」 「京の地主で、幾つか家作を持つ者です。我々も懇意にし、その人物ならば、何を云わずとも、寺脇殿おひとり寝起きする家を貸してくれるでしょう。もっとも、裏店(うらだな)でござるが」 破顔した近藤に、 「これはありがたい」 直江は膝を進めて頭を下げた。 「では寺脇殿、今宵はもう遅い。伝五郎殿の処にご案内するのは明日にして、今夜のところは、これも又我々と親しい医師の家に泊めて貰うと云うのは如何だろう」 近藤の申し出に、 「いえ、もう既に夜も更けております。ご迷惑をおかけする訳には参りませぬ。どこか旅籠を探して泊まります」 寺脇は固辞した。 「そう申されると、我々も、ちと困る。何しろ我々は迷惑のかけっぱなしでしてな。我々としては、迷惑のかけ仲間…、と云うのを欲しいところなのです」 その遠慮を払拭するように、近藤が、大仰に困り顔を作った。配慮は寺脇に伝わったらしい。 「では御言葉に甘えて、お許し頂けますでしょうか」 揺らめく焔が、時折翳を濃くする面に、柔らかな笑みが広がった。
夕餉をとっていなかった直江と寺脇の為に、酒の入らぬささやかな食事を終え料理屋の玄関に出ると、三和土(たたき)の隅に伝吉の姿があった。 話が纏まるや土方は、別の間に控えていた伝吉を田坂の家に走らせ、急な客を一晩引き受けてくれるよう頼み込んだのだった。
「田坂さんはいたか?」 「へぇ。いつでもと、笑っておりやした」 託を聞きながら、又かと呆れて笑う若い医師を脳裏に浮かべ、土方は苦笑した。その時、ふと後ろに気配を感じ振り向くと、寺脇が立っていた。 背そのものは土方より足りないが、凛と伸びた背筋が実際よりも長身に見せる。彼の立ち居振る舞いの鋭さは、少しも変わらない。 「宗次郎…、いえ、総司君は元気にしていますか?」 寺脇は懐かしげな笑みを浮かべた。 「今から案内する家に、明日行くことになっています。貴方の顔を見たらさぞかし喜ぶ事でしょう」 言葉の終わらぬ内に、寺脇の眉根が寄った。 「今宵お世話になる家は、医師の家とお伺いしました。もしや…」 「その、もしやです。二、三日前に風邪を引きまして、通わせております。もう大方は良いのですが、念のためです」 まだ愁眉を開かない寺脇に、土方は苦笑した。 「宗次郎にとって、この季節は天敵のようですな」 長い嘆息のあと、宗次郎と、寺脇はもう一度、総司を幼名で呼んだ。 「先は、この者が案内(あない)します」 だがその云いまわしに敢えて気付かぬ振りをし、土方は店の者が持ってきた提灯を伝吉に渡した。
外に出ると、骨の髄まで凍えるような冷気が頬を嬲った。部屋の中の暖かさに慣れた身から、あっと云う間に熱が奪われて行く。歯の根も噛み合わない、思わず背を丸めたくなるような寒さだ。 雪は止んでいたが、家々の屋根の上にも、往来にも厚く積もってい、雲間から覗いた月が、闇に眠る白いそれを煌々と照らす。 「では…」 見送る者達に一礼すると、伝吉の後に続き、寺脇は雪明りの道を歩き始めた。そして蒼い光に浮かぶその背を、月牙の如き鋭さを湛えた土方の眸が、じっと見詰めていた。
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